主の与える平安

この時期、仕事や旅行で日本を訪ねる外国人は、あちこちにきらめくクリスマス・イルミネーションを見てどう感じるだろう。都心や広場には見上げるような豪華なクリスマスツリーが光り、また住宅街にも競うようにイルミネーションが瞬きます。「いつから日本はキリスト教がこんなに盛んになったの?」と尋ねたくなるに違いありません。「いやこのイルミネーションは、キリスト教とは何の関係もないのです。これはボーナスシーズンの販売促進の一つの大切なキャンペーンなのです。」とでも答えるのでしょうか? キリスト抜きのクリスマスが可能なら、日本のクリスマスとは、カーニバルのようなキリスト教信仰に背を向けた、何でもありの大騒ぎに近いものなのかもしれない・・・

聖書のクリスマスは、幼子イエスの誕生の物語です。そのお生まれは、嬰児(みどりご)の誕生にはおよそふさわしくない、ベツレヘムの家畜小屋の片隅でした。つまり人間の誕生としては最底辺の、現代世界では難民の子供のひとりの誕生の様(さま)でした。その誕生は旅の途中の出来事でしたし、ご誕生の直後、今度ははるかエジプトにまで、ヘロデによる殺害を逃れて長い長い逃避行を強いられたのでした。ヘロデ大王はその企ての一環として、ベツレヘム近郊の2歳以下の男子を皆殺しにするという蛮行をやってのけたのです。それでも幼子は天使による告知によってすんでに難を逃れたのでした。

次から次へと繰り出されるローマ帝国やユダヤの王権からの権力的、暴力的な圧殺に、貧しく無力なヨセフとマリアそして幼子イエスは何の備えもありませんでした。特に意図的に幼子の殺害を企図したヘロデの殺意は執念深いものがありました。けれどことを決めるのは神です。そも自分の権力を守るためだけに他人を排除し、殺害すら企てるなど、おぞましいとしか言うほかはなく、もはやそうした権力が長続きすることは不可能なのです。ヨセフとマリアそして幼子イエスは不安定な死と危険の中に隣りあわねばなりませんでしたが、彼らはいささかも傷を負うことはありませんでした。

現代日本はいささか不安定な時代です。モノはあり余って溢れているように感じます。けれど人と人のかかわりが希薄で、同じ地域社会に生活している人が、電気もガスも切られて、餓死していても気づかれなかったままになっていたりします。隣人が何を考え、何を感じ取っているかの繊細さが失われつつあります。逆に言い知れぬ猜疑心や不満が路上や電車内で無意味ないさかいを生み出したりするのです。人の心はますます渇いて荒みつつあります。これはモノや金銭で決して潤うことはないのです。

あのまったく光が見えないほどに、暗闇に包まれるような理由のない不安にあって、<神が守っていてくださる>という確信に生きることができた貧しく弱いはずのヨセフとマリア夫婦が抱いていた平安と喜びこそ、人の心を潤すのです。実際には不幸とも言えない不満を、親や学校のせいと決めつけ、他者への怒りを溜めこんだり、自己憐憫に逃げ込む傾向が少なくありません。どんなに追い込まれても、神の救いの手が引き上げられることはない。ヨセフマリア一家の生き方は証します。少しも疑わず、のべられた手を握り返そう。

(2013年12月22日 週報より)

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