私の母親

私の母は明治時代末期、岩手県の盛岡で、職業軍人の父のもとで育てられた。幼いころの思い出として繰り返して私に語ったのは、満開に咲く桜の下で、園長が外国人の幼稚園で過ごした楽しい出来事が、人生の宝物・最も美しい思い出として心に深く刻まれていることでした。これは、ことによったら私がキリスト者として生きることになる上に、何らかの影響を与えたかもしれないのです。母はかつて日本が明治、大正、昭和と10年ごとに新しい戦争をしかけて行った壮烈な時代に身をおいた女性でした。戦時中は嫌々、愛国婦人会の会長も押し付けられたことがあったと父親が語ったことがあります。

母は雷が嫌いでした。ひどくおびえるのです。私は雷が鳴ると、窓辺に近づいて大きいとか、美しいとか、これらを観察することが多いのですが、母は雷に病的な恐怖を表わして、恐れたのです。私の家族は当時樺太に住んでいました。父親は内務省・樺太庁の役人で、軍人でもありましたから悠々自適な生活を享受していました。しかし1945年8月9日、突然ソビエトの参戦。我が家はすべてを失うことになりました。それでも軍人家族は特別な待遇があったようです。1歳にもなっていない私を含めて、家族は重武装の駆逐艦に乗せられて無事稚内に到着したのです。ですがその頃同時に出発した民間船は次々と国籍不明の潜水艦に撃沈され、多くの人々がオホーツク海に沈められたのです。引き上げという苛烈な戦争体験が、戦後になってさえ落雷の音に、引き揚げ時の砲爆撃の爆音を思い出させていた、と私は思っています。

戦後、私の父の職場は外務省に移りました。とはいえ父の思いは樺太に残された人々、そして樺太で命絶えた人々に深い責任を覚えたようです。そこで港区・麻布に樺太からの帰還者の住宅を建設することに必死となったようです。自らは府中の都営住宅に家族を置き、必死に大蔵大臣の一万田と折衝し、引揚者のための住宅建設に奔走しました。私たち家族は置き去りになったのです。幸か不幸か、私は全く放任状態で、保育園にも、幼稚園にも入れてもらえず、今では考えられませんが小学校に入ってから文字を知ったのです!

けれどこの日本帝国主義を背負うような父と母が、その人生でたどりついたのが息子の私を通して受け入れたキリスト教信仰でした。二人ともその歩みの最後にキリスト教の洗礼を受けたのです。母は最晩年食道癌にかかりました。判明した時には食道は、ボロボロでした。主治医は余命3か月といいました。毎週府中の彼女を連れて府中病院に行き、その日の診察後、今後は口にできなくなるのですから、今、食べられうる食事を食べさせたのです。刺身、ウナギ、すし。でもたちまち入院となったのです。私は教会でのその日の仕事を済ませ、夜7時過ぎに病室に行き、数か月間、病室に泊りました。そこでは、自分の語り得る福音を必死に語ったのです。
不思議なことが起こったのです。10年前にあれほど胃癌を恐れて、日常生活を見失った母親が、今回これほど歴然とした食道がんに見事に勝利して、驚くべき平安にあるのです。数か月間母親のベッドサイドに夜を過ごし、翌朝、帰宅するという生活を強いられた。とはいえ、牧師ゆえに多くの人の人生の最期を見つめてきましたが、これほどに厳しい病気に直面して、これほどの心の平安を保った人を見たのはあまりいないのです。それが最も私に身近な人だったのです。昏睡状態になる前に、その朝、大きな、大きな口を開いて<ア・リ・ガ・ト・ウ>と最高の笑顔で私を病室から送りだした。文字通り天国へ凱旋したのです。厳しい戦争から戦争に翻弄された時代に生きた母ですが、神はその最善の部分を造り上げてくださった、と私は信じています。

(2014年10月05日 週報より)

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