傍観者意識の評価

その業界(石器研究)では名の知れたある有力者が唱えた有名な学説があります。その当時にあっては、正に画期的な考え方で、多くの研究者はそのアイデアに驚嘆しながら賛同していました。全国津々浦々、その説に基づいた研究が数多く発表されました。しかし後になって、その説には根本的な欠陥があることが判明しました。多くの人は薄々感じながらも、誰もはっきりとそのことを指摘することはありませんでした。やはり権威に盾突くことが怖かったのです。ある人は言いました。「あの説に欠陥があるということは、君に言われなくても分かっているよ。僕たちは、あの説に基づいた論文は書いていないよ。すなわち、あの説を無視することで誤りであることを示しているんだよ」と。以前からよく知っている人から、直接このようなセリフを聞かされて考え込まざるを得ませんでした。自らの意見を表明しないことが、自らの意見の表明であるなどということがあるでしょうか? 君子危うきに近寄らず。和をもって貴しとす。意見の対立や争いを好まない日本人的な心性には心地よい考え方です。あるいは和解や赦し、平和といった観念に馴染みのあるキリスト者にとっても馴染みやすい考えです。
それでは、キリスト者は、いつでもだれでも、どんな敵とも対立してはならないのでしょうか。対立する二つの陣営の間に立って両者に和解をもたらすように努めなければならないのでしょうか。キリスト者はいつでも公平でなければならず、対立する両者の言い分を良く聞かなければならない。必ず双方に良い点と悪い点があるはずで、互いによく話し合えば誤解は解けるものだ。幼い頃から、こうした考え方を知らず知らずのうちに身に着けてきました。しかしここには根本的な間違いがありそうです。もちろんこうした考え方が当てはまる場合も多くあることでしょう。しかしいつでもどこでも当てはまるとは限らないのです。あらゆる対立がこうした状況とは限りません。すなわち、一方が決定的に正しく、一方が決定的に間違っている場合があるのです。こうした場合に、両者の間を取り持ち、和解を導くために妥協点を見出したり発言を控えたりすることは、結果的に本来あるべき正義を損なうことにつながります。

キリストは、常に社会的に抑圧されて苦しむ立場の人々の側に立っていました。虐げられている女性に対して心から湧き出す、汲んでも尽きない泉を示されました。痛む人を遠目に見ながら道の反対側を通り過ぎる宗教者を反面教師として諭されました。明らかな誤りに対して発言を控えることは、問題の所在を曖昧にして解決を遠ざけるのに有効です。

キリスト者は、常に傍観者的な中立の立場を保つべきであるとする考えの背後には、不正に満ちた世の中を肯定し、自分の平穏を何とか守ろうとする自己正当化が潜んでいます。

世の中が求める偽りの和解とキリストが求める真の和解の違いを見極めなくてはなりません。見せかけの平和ではなく、キリストが求める本当の平和を。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」(ルカ書12:49)

五十嵐 彰 (2020年11月8日 週報より)

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