心のあちこちが痛いです

最近よくギリシャ神話の幾つかを思い出す。

【シーシュポス(あるいはシジフォスとも)の岩】
シーシュポスは罰として、タルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられ、あと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される。

福島第一原発の敷地には、毎日1,000トンの地下水が流れ込んでおり、そのうちの300トンは高濃度汚染水となって太平洋に流出、400トンは原子炉建屋に流入、回収された高濃度汚染水は地上の貯水タンク1,000基に50万トン以上が保管されており、常に増設していかなければならない。初期に建設したタンクから汚染水漏れが頻発しており、新たなタンクに移さなければならない。

【ダモクレスの剣】
シラクサの王ディオニシオスの部下ダモクレス(Damocles)が王を褒め称えたところ、王は彼を髪の毛でつるした剣の下にある王座に座らせて常に危険があることを示した。

4号機の使用済み核燃料1,533体の取り出し作業が去年の11月から始まった。大型クレーンを使って1本ずつ引き上げ、キャスクと呼ばれる輸送容器に移し、仮保管プールまで搬送する。いわば大形の「ユーフォ―・キャッチャー」のような作業が1年以上にわたって続けられる。通常の作業ですら危険だが、今回の場合は予測不能なガレキの混入、それに伴う燃料体の変形・損傷、高濃度汚染下という作業環境の極度の悪化など様々な予測不能な状況下での過酷な作業である。取上げ作業中に、震度5以上の揺れに見舞われたら、その時どのような状況が引き起こされるか、誰も予測できない。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

ヨハネの黙示録3章15-17節

アーシュラ・ル=グィンという小説家がいる。日本でも映画化された「ゲド戦記」の作者である。その彼女の作品に「歩み去る人々」という短編がある。光りにあふれた世界がある。空と海は澄みわたり、壮麗な建物が並ぶなか、歓喜の音楽が鳴り響き、花々の芳香が漂う。独裁者も奴隷もいない。争いも諍いもない。祝祭に集う人々は、信頼と友愛で結ばれ、互いに尊重しあい、豊かな満足感とともに日々を賞賛する。「幸福」というもの、「理想郷」というものがあるとすればこのような世界である。
しかしそれには、一つの代償があった。この地に住む全ての人は、こうした幸福が一人の人間の痛ましい犠牲の上に築かれていることを知っていた。暗く狭く湿った穴倉の中で、飢えと寒さに怯え苦しみ、長い間助けを求める言葉すらなくした一人の子供の犠牲の代償として、それは与えられていたのだ。それは、契約だった。その子にいかなる恵みも与えてはならない。この契約を破れば、与えられた全ての繁栄と美と喜びはたちまち消え失せる。このことを知った人々は、皆一様に衝撃を受け、悲嘆に暮れた。しかし長い逡巡を経て、多くの人はこの契約を受け入れることにした。もしもその子どもを助けても、既に手遅れではないか。それよりも今の幸せを守ったほうがより多くの人のためになるのではないか。そして人々は自らの幸福のかけがえの無さを確認して、日々の生活に戻っていく。心に少しの痛みを感じながら。
それでも、ときたま、そのたった一人の悲惨な生のために、自らの楽園を静かに立ち去る人がいる。満ち足りた生活を捨てて、一人殺伐とした世界へと静かに歩み去る人。それが表題の「歩み去る人びと」である。何と恐ろしい寓話だろう。しかしそこには汲むべき多くのことが語られている。正義とは何か、誰かの犠牲のもとで成り立つ幸せとは何なのか、資本主義とはこうした犠牲を不可欠な要素とするシステムではないのか。ユートピアを後にする人びとの存在は、こうした事柄を鮮やかに浮かび上がらせる。正義(正しさ・義)は、幸福(幸せ・喜び)を上回ると。

五十嵐 彰 (2014年02月09日 週報より)

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