ゆるしと愛

マタイによる福音書 5:43-48

イエス・キリストという方は,ふつう人が決して言わないだろう言葉を時折語られます。43節・44節はその一つです。人類の誰がこうした言葉を言語化できるだろう。ほかにもまだあります。ルカ23:34節もそうです。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているか知らないのです。」自らを十字架につけるために主イエスを十字架に釘づけにしている兵たちのために祈った言葉です。しかもこの祈りは、祈りを向けられた兵たちの心を少しも動かしませんでした。

2千年前も、今も、目の前にいる人を敵か、味方で、峻別することはよくあることです。アメリカ大統領に就任したトランプ氏はまさにそうです。大統領選挙に名乗り出た人々は別に敵ではありません。敵どころかむしろ近い友人たちであるはずの人々でしょう。けれど彼の眼には敵か、味方かでしかの視線しかありません。トランプ氏の言葉は96%が虚偽と書いている人がいます。ましてや選挙においてはどんな嘘も認められるのがアメリカの大統領選挙だそうです。

主イエスは「敵を愛す。」といわれました。そう語ることによって、敵は十字架に釘付けにする行為をやめるわけではありません。そうした見込みが少しでも立つわけでもありません。人はいったん敵とみなすと徹底的に痛めつける習性が備わっています。戦争中、多摩においても撃墜されたB29の搭乗員たちは多くの場合、日本刀や鎌や鋤で無残にその場で斬殺されたと伝えられています。イエスキリストが言われる<敵を愛する>ということは、あり得ない現実、戦争という状況によればあってはならない現実なのかもしれません。しかし、主イエスが言われるのは<敵と、敵対すべきでない>にとどまらず、敵を愛しなさい、でした。

ひとが胸に手を置いて、自分が愛することのできない人を思うと、たちまち何人、ひとによっては何十人かの顔が浮かんでくるかもしれない。そして主イエスはさらに畳み込むように45節まず「父(なる神)は悪人にも善人にも太陽を登らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」つまり神は自分の敵にも味方にも、区別なく敵味方の区別をしないで愛し、報いる。「自分を愛する人を愛したところであなた方にどんな酬いがあろうか。」と言われます。主イエスは徴税人でも同じことをしている。

徴税人とは同胞のユダヤ人から不当な利得で金もうけを第一とする人々です。主イエスによれば、それはつまり46節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな酬いがあろうか。」この言葉を徴税人の愛は自己中心的で愛というにはあまりに低級なものと退けてしまうのですが、あえて主イエスは彼ら徴税人と言います。それは徴税人の愛。徴税人にも妻があり、子がいます。外では否定されている分、家族愛はもっと暑かったかもしれない。――<自分を愛してくれる人を愛すること>――を一方的に否定しない心の大きさを感じます。ユダヤの大半の人々は徴税人を<徴税人>というひとくくりで差別しました。けれど主イエスは、徴税人を<徴税人>というひとくくりで見ようとはしない。当然差別もしない。徴税人が持っているかれらなりの「酬いを望まないで人に与える思い」をあなた方もいつも持っているのか。

そもそも愛には酬いがないのです。酬いや打算がないから愛が成立します。以前ある新聞記事に目が留まりました。歩道を歩いていた若いお母さんと1歳の赤ちゃんをトラックがはねたのです。母親は即死でしたが、赤ちゃんは軽傷でした。お母さんは子供をとっさに安全なところに投げて子供を救ったのです。痛ましい事件でしたが咄嗟だからこそ、その方の母親としての深い愛が噴出した出来事でした。

主イエスは「父は悪人にも、善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われます。主イエスは敵味方の区別なく愛し酬いることが神のなさることだから私たちもそうすべきだといわれる。…そうするときに「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全なものとなる。」先の新聞記事のお母さんは生き残った子供とは死に別れたのですが、子供は後々ますます、わたしはこの母親に救われたと記憶してゆくでしょう。

神さまが無条件に罪びとを愛し許す。十字架の上から、人間に対し呪いの言葉を投げかける権利を持っている方が、そうせずに、そうしないだけでなく、本来彼が投げかけてよい憎しみと恨み忘れて、罪びとが投げかける憎しみを許し贖う。だから憎しみは克服されたのです。

かつてマーティン・ルーサー・キング牧師はこのみ言葉から公民権運動故に自分たちを逮捕し、投獄する官憲を愛するといいました。牧師が逮捕される。それはどう見てもマイナスです。しかしそれは逆に大いなるプラスでした。留置される、投獄されるということはこのみ言葉を思い起こさせたのです。この自分をみ言葉が捕らえみ言葉に生かされる経験として神が臨んだということのようです。まさにマーテインL/キング牧師にとって、神の言葉が罪人を生かす命の言葉として電流のように働きかけた、神の子のあかしだったのです。その生き方がかつて口をきわめてエイブラハム・リンカーンを否定していたエドウイン・スタントンを生涯の友とした力でした。

神の言葉が世代を超えて罪びとを生かす命の言葉として人を捕らえみ言葉を証するように迫るのです。そうして人は神の子であることを自覚するのです。

(2020年11月15日 礼拝メッセージ)

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