わたしと一緒に楽園にいる

ルカ福音書23章32-43節

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本日は1週間後にイースター(復活祭)を控える大切な主日を迎える日曜日です。十字架こそキリスト教にとって大切中心的な出来事です。ところが福音書では十字架の上で主イエスがどれほど苦しまれたかについては、ほとんど描かれてはいないのです。文字通り<筆舌に>尽くしがたいほどの苦しみだったということなのでしょうか。
しかし<筆舌に>尽くしがたいほどの苦しみの中から、主イエスは7つの言葉を発しておられます。いわゆる<十字架上の七つの言葉〉

  1. 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
    *主イエスを十字架につけた兵隊のために祈られた、とりなしの祈りです。
  2. 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)
    *救いを求める犯罪人への約束の言葉です。
  3. 「母に『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』(ヨハネ19:26,27)
  4. 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27:46)
    *主イエスの言葉がそのまま記録されました。
  5. 「渇く」(ヨハネ19:28)
  6. 「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
  7. 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

今日はこれらの7つの言葉から1,2番目に語られた、主イエスの十字架への思いの目をやってみたいと思います。

ゲッセマネの園から出て役人にとらえられた主イエスは、一晩中引きづり回されて大祭司たちの裁判を受けました。そしてついに死刑が決まりました。というより最初から決まっていた。翌朝、大祭司たちは主イエスをローマ総督ピラトに訴えました。ピラトは初めから主イエスの無罪を信じていました。ピラトは何とかして主イエスを解放しようとしましたが、イエスを解放することがピラト自身の総督職を危険にするという姑息な考えに立ち至り、自分の身の安全を図るため主イエスの十字架刑をユダヤ指導者の求めるがままに認めたのです。十字架刑とは、両手両足に釘を打ち付け、地上1メートルの高さに吊り上げるローマの死刑執行方法でした。余りの残虐さにローマ市民に対しては免除されていたようです。

そうして主イエスは十字架に釘づけにされました。イエスは、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、とりなしの祈りを(変換)のです。
誰のため?
イエスを十字架に付けた兵士たちのための祈りをささげた。きっと主イエスはすでに祈っておられた。しかし主イエスは天の父の赦しも願ったのでした。

イエスと共に二人の犯罪人が、一人は右、もう一人は左の十字架につけられた。何か大変な犯罪に手を染めたのかもしれない。そこを通る人々は「重罪を犯した人」としか見ません。
しかし全ての人がそうして主イエスをののしり続けていたのではなかった。途中から片方の犯罪人が主イエスの態度に深い感銘を覚えていた。そして彼が片方をいさめるのです。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(40-43節)

恐らく最初は二人で、ともに主イエスを罵っていた。ところが彼は、身近に十字架にかかっている主イエスの祈りのすべてを聞いてしまった。この犯罪人はイエスの祈りの大きさ・高さ・深さに驚きと恐れすら抱いている。そこに人間をはるかに超えた神性を感じた。
本来なら重罪を犯して、まず第一に天国の門から弾き出される人間なのに、キリストを十字架に付けても許される私たちを迎えてくださる。天の国とは、「願う人ならだれでも、今日わたしはあなたと共にある」…そういうところなのです。

2023年4月2日 礼拝メッセージより

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