愛に生きる

ヨハネ福音書 13章 1-20節

自分が選んだ者たちの足を洗う

ヨハネ福音書の13章ですけれども、いわゆる最後の晩餐の出来事です。この場面でヨハネは、キリストの特別な愛のあり方を語りながら、愛することのできない人間に向かって、人はいかに愛すべきか、人をどう愛すべきかを訴えます。(1節)「さて、過越祭の前のことである。イエスはこの世から父の元へうつる自分の時がきたことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書いてあります。私は、後半部分の「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」に、はたと目が止まってしまいました。「この上なく」という言葉です。余すところなくという意味でしょう。“すべての愛を弟子たちに集中して注がれた”
英語の聖書を読むと「love them to the end(最後の最後まで)」って書いていありす。言い尽くすほどに弟子たちを愛し抜かれた。この言葉を聞いただけで、説教はそれでおしまいという気がするほどに、この上なく愛し抜かれたのです。

弟子たちはこれから始まる出来事など何の想像もできていません。しかし主イエスはすべてご存知で、これから逮捕されて、徹夜の裁判にかけられて鞭打たれて、そして十字架につけられるのです。それは途方もなく大変な出来事なのです。敵対者たちの敵意の怒りのみならずです。他ならぬ弟子たちの裏切りと離反、そして混乱ぶり。そういうものを全部知った上で、極限の愛のあり方を示すのです。これこそ主イエスのイエスである所以。まさにイエスはそうして愛の光を燃やして、できることなら弟子たちを通して、自分たちがどのような愛に生きるべきかを示されたということだと思います。感心するだけでなくて、すべての弟子たちがそうした愛に生きることこそ、主イエスが表された愛に応えること。

ところが2節を見ますと、正反対のことが起こってきます。
「すでに悪魔はイスカリオテ、シモンの子ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていた。」
イエスによる人間の限界を遥かに超える愛と献身が語られる一方で、ユダの悪魔的な裏切りが登場していきます。人間を超えた存在である悪魔が弟子たちの中に注がれていく。直視できないほどの明るい光と底知れない闇のコントラストが感じられます。
この章の30節のところで「ユダはパン切れを受け取るとすぐ出て行った。夜であった。」と閉じられています。ユダはすでに主イエスを裏切る思いを持っていた。最後の晩餐ですから夜の出来事であることは間違いない。でも、単に時間的な夜ということだけではなくて、ユダの心の闇が表現されています。グループの会計を扱うほどの人物が銀30枚で敵方に主を売る。そうした裏切りをはっきりと知りながら、主イエスは極限の愛を少しもブレないで表し続ける。
ユダといえば裏切り。裏切りといえばユダ。典型的な裏切りの形ですけれども、色々と話題になる人です。ユダは弟子としての初期の頃から金の亡者だっただろうか。もともとそういう人だったのだろうか。「この主イエスを銀30枚で売るという行為も、単に金をもらうだけのためだったかどうかは分からない」などと言う人もいます。ことによると、主イエスに神としての力を発揮していただきたいために、そうした機会をつくろうとしたのだと説明する人もいます。
独りよがりの正義感や善意が、人や共同体を傷つけることがあります。日本の戦争時の「お国のために」という心も一つの正義です。しかしそれが政治家に利用されるとき、アジア侵略の手助けをすることになりました。人は日常でさえ、何が正義で何が悪なのか見えなくなることがあります。主イエスは私たちに、闇に生きるのではなく光に行きなさいと精魂込めて語ろうとします。
世を生きて歩くには戦いがあります。なによりも、それは闇との戦い。弟子たちも闇と戦わなければならない。戦うにしても、弟子たち自身が闇を内側に併せ持っていることがあり得る。

よくこういうことが言われます。
「人間が挫折や転落に踏みとどまれるかどうかは、その人がどこまで愛されたかに関わるのではないか。」
もちろんそういう部分があると思います。しかしそうとも限らない。人間とは複雑な存在です。主イエスは弟子たちを極限まで、究極まで愛された。弟子たちは究極まで愛されたにも関わらず主イエスを裏切るということに立ち至ってしまった。

もうずいぶん前、2000年を何年か過ぎたぐらいだったと記憶していますけれども。杉並区で、ある事件が起こりました。お父さんが海洋学者で、お母さんが主婦、その息子が公認会計士。社会で言えばエリートの一家でありました。ところが、公認会計士の息子が両親を殺した。そして自らは放火自殺した出来事。
事件を起こした息子は、仕事にも人間関係にも行き詰まった果ての出来事だと伝えられました。きっと親子の間には語られない、長い長い時間の経過と、様々な争いと言いましょうかトラブルがあったのだと思います。家庭というものはそんなものです。そういう部分もあわせ持っています。ですから、どちらが加害者でどちらが被害者だなどと決めつけられないのだろうと思われます。
その時、「人間は、自分が何者で、どれほどの問題性を抱え込んでいるかということに意外なほど気づいていない」と感じました。

問題は弟子たちです。弟子たちは最初から可能性を欠いた、どうしようもない人々というわけでは、もちろんなかった。彼らは主イエスから選ばれた特選の人です。そういう人々が愛する主イエスから「あなたがたはわたしを裏切るだろう」と予告されても、彼らは「自分たちがそんなことを犯すわけがない」「我々はそれほど愚かでもなければ弱くもない存在」と信じてやまなかっただろうと思います。
私たちもそうなのかもしれない。私たちが見つめている我々自身の像というものが、多少着飾った心の内面を持っているのかもしれない。

そういう弟子たちを主イエスは極みまで愛し抜かれた。精魂込めて愛し抜かれたのです。そして、愛し抜かれただけではなくて、弟子たちの足を洗われた。
(3節〜)「イエスは父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、またご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしている事を悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に纏われた。それからタライに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた。」
確かにパレスチナでは埃だらけの道を歩くのですから、1日歩き回り活動した後の足は泥だらだったのかもしれません。誰かが主イエスの足を洗わなければならないだろう。誰かが仲間たちの足を洗わなければならないだろうということなのです。弟子たちには権力的な序列競争があったから他人の足など洗いたくはなかった。ここで自分が仲間の足を洗わなければいけないなどという理由はどこにもない。そんな気持ちはさらさら無かった。足を洗う行為は、もともと奴隷がすべき仕事だったと言われます。しかもユダヤ人でない奴隷がやる仕事。
そこで足を洗ったのは主イエスだった。そしておもむろにこう言います。
(15〜17節)「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わしたものにまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら幸いである。」
(34,35節)「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」そうすれば「それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
主イエスが十字架を前に、これほどのお膳立てをして愛を教えます。愛し合う。べつに目新しいことでは全然ないです。ただここで言われる愛は、やはり独特です。次元の違う愛です。つまり主イエスの愛は「仕える愛」だった。

愛にも様々な形があります。与える愛。奪う愛というのもあります。要求する愛、利用する愛、主イエスの「仕える愛」の反対側に「仕えない愛」というのもあるかもしれない。自分の意思に従う限り愛する愛(立場の強い者が、立場の弱い人に対して「自分の言うことを聞けばよくしてあげる」)。もちろんそれを愛と呼ぶかどうかは別ですけれども、そうしたものは本物の愛とは言いかねるものです。

しばしば夫婦のあいだで、夫が妻に対して、親が子供に対して、男が女に対して、上司が部下に対して、相手が自分の所有物かのように言い、扱います。しかし主イエスは弟子に仕えます。相手を自分のものにしない。弟子に膝を折って足を洗います。
主イエスの言葉はさらに徹底します。

(15章 11節〜)「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなた方の喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたは、わたしの友である。もはやわたしは、あなたがたをしもべとは呼ばない。しもべは主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことを、すべてあなたがたに知らせたからである。」

なぜユダは、これほどまでにおっしゃるイエスを裏切ったのでしょう? ユダは主イエスを一番愛していたかもしれない。なぜならば彼は会計をしていた。イエス様が任命したかは知りませんけども、彼は仲間からも信頼されていた人です。それだけに主イエスには政治的なメシアであって欲しい、王になってくれたらいいと思ったかもしれない。ですから一挙にクライマックスを作り出して、王への道を歩ませようとした。“仕える愛”など、そんな概念はユダのものではなかったのだろうと思います。
でも主イエスは、そうするユダの足をも洗いました。ユダがかけたのは、あまりにも勝手な思い込みの正義感と言ってもいいものではないでしょうか。それは究極的には、主イエスを信じないで自分を信じていることになるかもしれない。我々はすべてを捨てて主に任せる勇気を持ちたい。ですが、思えば弟子たちの混乱、裏切りは、すべて主イエスの視野には最初から見えていた。にもかかわらず仕える愛のすべてを弟子たちに注ぎ込んだ。弟子たちは、主イエスを裏切らずして自分が裏切る人間であることを自覚できなかった。そういうことではないでしょうか。
弟子たちはキリストの予告の言葉も耳に入らなかった。それゆえキリストの赦しの言葉は事件が起こった後では、痛切に心に響いた。主イエス・キリストは、裏切りなど何も起こらなかったかのように弟子たちを再任命した。弟子たちは完璧に赦された。聖霊による新しい人間に変わる事ができた。

今、ペンテコステが近い時期であります。ペンテコステの出来事は、主イエスによって弟子たちが新しい人間に生まれ変わりうる時の印。時のメッセージというものは、そういうものではないんですか。私たちは、自分を変えるということが、どんなに困難かよくわかります。しかし主イエスの招きの中でそれがあるとすれば、そう信じてもいい。いや信じるべきなのです。そういう時を今、私たちは迎えているのだと思います。

お祈り

神様。こうしてペンテコステに向かう日々の中で、あなたは弟子たちに対する、人間のレベルを遥か超えた、まさにあなたがあなたであるがゆえの、そのような可能性を私たちにも開いてくださいました。どうぞあなたの前にこうして歩んでいけることは幸いです。どうぞ私たち一人ひとりの上に、あなたの助けがありますように心からお願いをいたします。どうぞこのペンテコステが新しい私たちの出発であるとき、出発の時でありますように。あなたの前に私たちが確かな歩みを踏み出す時でありますように導いてください。一切を御手に委ねます。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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