救われざる者の救い

ローマの信徒への手紙 9:19-29

聖書には新約のみならず旧新約聖書を貫いて、神は救い主、創造者であるとともに、神は人を選ぶ。選ぶ神に私たちは捕らえられたと私たちに語りかけます。

エフェソ書の冒頭1:3から4節はそれを表す代表的な聖句といえます。

「私たちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、汚れのないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。」

とはいえ<選ぶ>とは、ごく客観的に見れば、選ばれる人々が一方にいるとともに、他方で<選びから洩れる人々>も生み出すことだろう。そうであれば、神に選ばれる人とは一見よほど正しく、まじめで、良いところだらけの完全主義者でもなければ、それと認定してもらえないだろう。

ローマ9章14節に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」とあります。15節には「私は自分が憐れもうとするものを憐れみ、いつくしもうと思うものを慈しむ」

神の不思議な選びについて考え始めれば、ヤコブを問題にしないわけにはいかないからです。エサウとヤコブは双子の兄弟です。一応、順番からすれば、エサウが選ばれ、平和的に相続が行われることが筋なのです。エソウが兄、ヤコブが弟です。ところが、老いて目の見えにくくなった父親に対し、ヤコブは毛深いエソウに成りすまして相続を実現するところなど、まさしく最近のなりすまし詐欺そのものです。
「神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」
この旧約聖書最後のマラキ者1:3節の言葉はあまりに偏りすぎた言葉に響きます。勿論、愛とは理屈でもないし計算も超えるものです。

ところがローマ9:24から前言を翻すように、「神は私たちを憐みの器としてユダヤ人からだけでなく、異邦人の中から召し出してくださいました。」とパウロは筆を進めます。
ホセアの書にも次のように述べられています。「わたしは、自分の民でないものをわたしの民と呼び、愛されなかったものを愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』といわれたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」

ヤコブとエソウの争いは延々と続き、最終的には和解が成立します。けれど長い時間がかかるのです。それは二人の人生に暗い影となって覆いかぶさるのです。

エソウ、ヤコブならずとも、神さまなぜ?と言ってもどうにもならない問題が突如降りかかってくることがあります。最近では千葉の八街で酒酔い運転のトラックが、通学中の小学生の列に突っ込んで2名のお子さんが亡くなり、一人は意識不明、残る二人が大けがをした交通事故がありました。親御さんの気持ちとしては耐えがたい出来事だったでしょう。予期しない病気に見舞われることも決して特別なことではありません。またこの数週間には、あちこちで大雨から突然の洪水をひきおこし、洪水が山崩れ土石流を引き起こした場所が各地でありました。突然の集中豪雨で家を失う。次から次へとそうした出来事が伝えられます

私たち普通の大半の人々は真面目に働き、必死に税金を払い、誠実な日々を過ごしています。我々には何の不正も悪もないのになぜこんなに辛い現実に直面させられているのだ?

人には本当に心ひそかに秘められた悩みは少なくありません。

■時ならぬコロナに罹患して回復にとても長い時間を要している人。
■喧嘩と不和の絶えない父親、母親のもとに私を生まれさせたのですか。
■どうしてもっと金持ちで、平和な家庭に生まれさせてくれなかったのですか

人は(エサウもヤコブも私たちも)神さまは何か間違いをしておられるのではないかと思う瞬間がある。こんな辛く息苦しい人生であるはずがない。

聖書は言います。『人よ神に口答えするとはあなたは何者か。造られたものが造ったものに「どうして私をこのように作ったのかといえるでしょうか」』(9:20節)

◎つまり神さまは一歩もひるみません。わたしたちに障害があろうがなかろうが、そうした条件にも関わらず、私たちは神の傑作なのです。

ヨハネ9章に生まれつき目の見えない人が登場します。

弟子たちはこの人をみつめながら「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したからなのですか? 本人ですか? それとも両親が罪を犯したからなのですか?」

すると主イエスはこう言いました。「本人が罪を犯したのでもなく、両親が罪を犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現われるためである。」
そう言って主イエスは唾で泥をこねてこの盲人の目につけ、シロアムに行って、洗うように命じた。そして彼は見えるようになった。この途方もない奇跡をユダヤ人たちは喜べなかった。それが安息日の出来事だったから。律法を破ることは悪でしかなかった。この生まれつき目の不自由だった元盲人はユダヤ共同体から村八分になった。

キリストは、たとえ生まれつき目が不自由な人でもその人間としての器は神の救い、神の愛、神の憐みを盛ることができる。神が造られた本来の器になったのです。

私たちは、誰でも何がしかの障害や傷を、この肉体や精神に持って抱え込んでいるのではないかと思います。同時に、この心と体を主に委ねて、神のものとしていただかなければならない。イエス・キリストは、たとえどんな器であろうと、その人に神の救いをもたらされるのです

星野富弘さんという画家がいます。20代から体育の教師だった方です。24歳の時、鉄棒から落下して頸椎を損傷して入院して2年後に洗礼を受け、そのころから口に筆を加えて美しい絵と詩を書き始められた。日本ではもちろん、アメリカやヨーロッパで個展を行っています。以前ハワイで個展を開いたときにインタビューを受けられました。「あなたは全身まひの障害で立派な作品を発表してこられましたが、もし24歳の健康な体育教師に戻れるとしたらどんなことを行いたいですか?」と尋ねられたのです。

そのインタビュアーは日系の方だと思いますが、日本育ちの人ならそんな質問はしないでしょう(24歳の健康な体育教師に戻れるはずもないのです)。何度も夢見ただろうと私は思いました。これは場合によってはそのままインタビュー切り上げになるかもしれない問いだと思いました。その時の星野さんの答えを私は忘れられません。こう言いました。
「今のままがいいです。肉体の障害を得ましたが、それによって多くのことを知りましたから」

わたしたちが神の憐みの器として生きる。その歩みはこの世のどんな傷にも屈することなく心の深みまで新たにされる (エフェソ 4:23) のです。

(2021年07月18日 礼拝メッセージ)

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