キリストの御復活

ルカ福音書24章1-12節

復活する

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本日は復活日、復活祭です。この冒頭の部分に、なぜ女性たちが朝早くイエスの墓に行ったのか、その理由が述べられています。つまり遺体を丁重に葬るべく、香料を持ってきたのです。

主イエスが十字架につけられる直前まで、弟子たちは序列を争っていました。あの威勢の良いペトロをはじめとする男性の弟子たちは、何処にか、すでに姿をくらましてしまっていた。その結果、これらの女性の弟子たちと、その時はまだ弟子ではなかったアリマタヤのヨセフだけが姿を見せていたのです。彼らはガリラヤからずっとイエスに従い、イエスの死も葬りも終始見届けていた人々でした。

「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が収められている有様を見届け」(23:55)
この「ヨセフ」とはユダヤの最高法院の議員。その議員がイエスの埋葬の協力者だった。いわば隠れた弟子であったかもしれない。さらに23:49には「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従ってきた婦人たちとは遠くに立って、これらの事を見ていた。」とあります。「終始」というのは始めから終りまでです。十字架の出来事のすべてを凝視していた人々という意味です。

この人々は誰で、どういう名前の人々だったでしょう。「それはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。」(24:10)
つまりは、3人だけは名前が分かります。

<マグダラのマリア>
この名前は復活の記述にはなくてならない人で、どの福音書にも現れる唯一の人物です。マグダラのマリアは「7つの悪霊を追い出していただいた人」と紹介されます。この人と、7:36以下の罪深い女との関係がどうなのかと問われます。高価な香油の入った石膏の壺を持ってきたその罪深い女性なる人は、涙でイエスの足を洗い、自分の髪の毛でイエスの足をぬぐい、惜しげもなく高価な香油を注いだというのです。この女性とマグダラのマリアを同一視する人は多いと思いますが、8:2,3節には<マグダラのマリア>の名前が出ていますし、彼女はヨハナやスサンナとともに持ち物を出し合って、犠牲を払って、奉仕しながらイエスの一行に従っていたのです。

<ヨハナ>
<ヘロデの家令クザの妻>とあります。「ヘロデ」とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスという人です。その家令だった人の妻がヨハナです。家令という言葉は今や死語同然です。広辞苑によれば「王家で実務・会計を管理し他の職員を監督する人。総務・財務・人事を束ねるトップ」です。完璧に体制側の人間です。その人の妻が主イエスの働きの強力な支援者だった。どちらかといえばイエスのような民衆の側に立つ宗教家を弾圧する側に立つ人です。しかしそういう人が熱心な主イエスの支援者だったのです。そうした立場で、主イエスに従ったということは、安定した生活はあったけれど、生活さえ安定すれば満ち足りるとは限らない、満たされない苦しみを持っていた。

<スサンナ>
この人も、持っているもので主イエスの支援をしたのですから、資産家だったと推測されています。この人々、経済的には恵まれていた。でも心にはモノでは癒されることのない心の渇きを持っていた。物質的には恵まれていながら、何か心には空虚な空洞をかかえていた。現代人に通じる虚しさを持っていたのではないでしょうか。

そうした人々がそれぞれに主イエスに出会った。心の病を癒された。人間の心を取り戻せた。その主イエスのために、可能な財産の一部分を持ち合って、奉仕しつつ、ガリラヤから来て、ついにイエスの十字架に直面してしまった。十字架を見守り、墓に葬られる有様を見て、その朝、復活の証人となったのです。

確かに主イエスの運動は、貧しい者、虐げられた者、差別され、見捨てられた人々に向けられていました。主イエスは、いと小さな貧しい者の味方でした。しかし同時に、こうして主イエスの最期を看取ったのは、社会の最底辺の貧しさに苦しむ人々ばかりではなかったというのも事実です。主イエスの御遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフという人は、サンヘドリン議会の議員で、マタイ福音書27:57では、イエスの弟子であり、金持ちだったと書いてあります。彼も経済的には豊かで、社会的には安定した体制側にいる人々ですが、イエスを権力でズタズタに引き裂いてしまう権力の在り方には組しきれない。この人も主イエスの堂々とした弟子であり、支援者だったのです。

社会の底辺に追いやられている貧しい人々だけでなく、体制側にある経済的には豊かな人が、主イエスの最後の最後、葬りにまで従っていったということは、主イエスの十字架と復活を通して行われる働きが、人間の社会的、経済的問題を越えて、人間の存在に関わる、より根源的な問題に光をもたらすものであったということです。

現代の日本は人間として生きることの崩壊があります。確かに、好きなように、欲望の赴くままにその場かぎりに生きることが当然のように行われます。人の命も、他人の命も重んじることなく、モノに埋もれ、物に動かされ、モノのようにこき使われる生活があります。人間と人間の結びつきはますます軽く、希薄になっていきます。

マグダラのマリアは7つの悪霊に捉えられていたとあります。彼女は経済的には豊かな人だったかもしれない。しかし、身体にか、心にか、苦しみを持っていた。人間として完全に崩れてしまう状態があった。主イエスに出会う前、絶望と孤立と、自暴自棄、立ち直れない自己嫌悪に苛まれていました。日常生活が自分の世界に閉じこもっているような人々は少なくない社会です。自分の都合だけを固執して、主張を通して、他人の言葉には全く耳を傾けない。対話を拒否する。自分を閉ざした人々。人は生かされてこそ、生きます。人間関係のネットワークは時には鬱陶しくも思いますが、それによってわれわれ自身が生かされてもいます。虚栄、嫉妬、劣等感などで、共同体の間で生きるべき人間の心を閉ざしてしまう要因は多くあります。マグダラのマリヤの7つの悪霊とはそうしたものと受け取ることも可能です。

その人々、女性たちが主イエスのご遺体に香料を塗ろうとやってきた墓は、実は空っぽでした。そこに二人の天使が語りかけます。「なぜ生きておられる方を、死者の中に探すのか。」(24:5b-7)
あの方はもうここにはいない。では何処にいるのか。思い出してください。主イエスはあなた方の人生の中にいます。あなた方自身に寄り添っている。パウロはガラテヤ書2:20で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と書きました。

それは主イエスの生涯の全てではないでしょうか。従おうとしたこの人々の苦しみ、辛さ、悲しみに主イエスが伴ってくださった。主イエスはそうした人生の中で、すべてを逆転してくださる慰めと喜びをくださった。十字架の出来事は主イエスが<ご自分を捨てて人々の慰めと解放をもたらしてくださる、その頂点><主の慰めはわれわれ一人ひとりの人生にあって、われわれが人間の心を取り戻す生涯の土台として、主イエスがわたしたちのうちに行き始められる出来事>なのだ。

わたしたちだって、7つの悪霊に憑かれたマグダラのマリヤほどではありませんが、生涯を振り返ると主イエスがおいでになったからこそ実現した出来事があります。苦々しい経験もありますが、それはそれで今のわたしを形作るきっかけになっていないわけではない。マグダラのマリアは主イエスがおいでになってくださったからこそ、人生を閉ざさないで済んだ。閉ざさないどころか男性の12使徒以上にこの厳しい状況に耐え、理解し、復活のキリストに出会うところまで進んでゆくのです。その着実さと強さは驚くほどのものです。他者との関わりを喜んで、ともに生きるものに変えられているのです。むろんそれは主イエスによる、決して見放さない、見捨てない深い愛によるものです。

2023年4月9日 礼拝メッセージより

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