いと小さきものにしたこと

マタイによる福音書 25:31-40

誰でも人間の一生は、死によって終わります。でも人の生涯が本物であったのか、なかったのか。幸せであったのか、なかったのか。何によって評価するのでしょう。以前、南米のチリーの出来事をつづる番組がありました。チリーと言えば日本人一般ではチリー産ワインが有名になっていますが、この国で1973年、わたしが神学校卒業を前に由木に学生牧師として住み始めた年、南米のチリーでクーデターが行われ、平和実現を目指したアジエンデ政権をピノチェット将軍が打ち倒して、この軍人が国家の全権力を掌握しました。たちまち国会が閉鎖され前政権側にあった数千の人々が投獄、虐待、拷問の末に殺戮されました。今あちこちの墓地で犠牲者の死体の発掘が行われています。将軍の悪政は18年間続き、90年代に入ってやっと正されはしましたが、彼は政権を退いても、陸軍を掌握し、その残虐行為を糾弾ことはできないでいたのです。彼は自分は全く悪くはない。悪いことは一切していないし、誰をも投獄していないし、殺害も命令していないと言い張ったのです。しかし、発掘は進みますし、人々の口をとどめることも出来ません。ビクトール・ハラは詩人でギタリスト。<平和に生きる権利>と言う歌を作曲して、平和運動を進めました。この人は凄惨な拷問の果てに、二度とギターが弾けないように両手首を切断されてスタジアムに移送された数千名の人々と共に、数日間水も食料も与えられず死に至ったのです。

ピノチェット将軍の過去の人権侵害への関与を独自に調査していたスペイン司法当局からの要請に、イギリス政府が答える形で英国滞在中ピノチェットは逮捕され、チリーの刑務所に収監され、やがて軟禁状態の中で病死したのです。その後2005年にチリーの大統領に就任した女性は、夫と息子をピノチェット政権下で殺害された経験を持つ女性です。ピノチェット政権下の刑務所で拷問を受け殺戮された人々は3万数千人と伝えられました。

人の生涯とは一体何なのだろう。あらためて複雑な思いに駆られました。人の上に立って、権力的に振舞うことを喜びとする人も確かにいるでしょう。金銭的に成功をすることを喜ぶ人もいます。死は確かにある意味では全て人生が決算される時です。しかし、それを決定付けるのは神であって、人ではないと言うことでしょう。ただこの物語では、譬え話を越えた話として語られています。譬え話というところは、「羊とヤギ」くらいかも知れません。羊は神にほめられる生活をした人。キリストに喜んでいただける歩みをした人のたとえ。ヤギは似ているけれどその反対の歩みをした人です。

やがてイエス・キリストが来られる。そこで右と左に分けられる。一人一人の人生を決算されて、いわば黒字なのか、赤字なのかを判定する。ここに至ったら、判定だけであって、そこで修正も、訂正もきかないのです。我々はそこで主イエスの判決を聞かせていただく。もし黒字であれば、<さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい。> 思いがけない言葉です。天地創造の時から用意されている神の国を継ぐ。すでに神の救いにあずかり、それに答えて生きて来たことが明らかにされるというのです。どこでこのあまりにも鮮やかな違いが生まれるのかと言えば「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」(35)。空腹の時に食べさせ、渇いていた時に飲ませる、これは愛の業です。その愛の業を主イエスに対してしてきたと言われる。言われた人はびっくりして言うのです。「主よ、いつ私たちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ病気ををなさったり、牢におられるのを見て、お訪ねしたでしょうか。」 いつ私はあなたのお世話をしたでしょうか。どこであなたにお会いしましたか。私たちは主イエスにお会いしたいと思っていますが、かなうことがありません。当然、いつ私はあなたに会ったのでしょう。そこで主イエスはこう言われます。

『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さいものの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』(40節)

イエスが兄弟と呼ばれたのはいったい誰だったのでしょう。<牢にいた時>と言う表現から、信仰のゆえに弾圧されて投獄されていた人、殉教者たち、イエスの弟子たちとも考えられます。もっと広くとらえるなら、私たちの身近にいるどんな人も主の兄弟と言うことも出来ます。我々の身近にいる飢えている人、渇いている人、泊まるところのない人、病んでいる人。そうした人たちに愛のもてなしをする。そうした1つ1つの事を主イエスは丁寧に数えていてくださるというのです。主イエスのノートに書き付けてくださった、とでも言えます。

25章には最初に油を用意した乙女の物語、次に神からのタラントンを有効に用いた人の喩えが語られます。この油とかタラントンと言われているものは、なによりもまず愛に生きると言うことです。パウロがコリント13章において神の霊の最大の賜物は<信仰と希望と愛>であり、その中でも最大のものは愛だと言います。人生を豊かにするもの、神にお返しできるタラントン、自分の力で生かしうる豊さ、それは愛です。愛に生きることの大切さは分かっています。でも、その愛に徹し切ることが出来ないのです。人を愛することに酬いを求めてはいけないし、そのことは分かっています。でも、分かっていながら、酬いを求めず自由に生きることが難しいのです。信仰に生きていながら、そのことを体得できないのです。愛は人間にとってどれほど大切なのかと言うことを知っています。そして愛は計算づくであってはならないと言うことも知っています。あの人にこれだけ良いことをしてあげたら、必ず報いてくれるはず、という期待を持つのです。その期待を心に持って、その人に良いことをしてあげると言うのは、本当の愛、友情ではないでしょう。それは計算ずくであって、本当の愛ではない。でも、実際には私たちは愛しながら、その酬いを求めるのです。親は子供を育てます。そして心のどこかで、やがての日に子供が親に報いることを期待するのです。けれど、親が子供に対してよかれと思ってしてあげたことを、子供が本当に喜んで感謝するとは限らない。この子のためにと思って身につけさせたことを子供が恨み続けるなどと言うこともまれにはあります。年老いた親に向かって、「わたしの目指したものを、あなたが閉ざした。」と文句を言いつづける。親はがっかりして、「ああわたしは人生を損した。」
これは実際にあり得ることです。こうしたことはどこでもあり得る。親子の間だけでなく友人関係の中もそうしたことが起こったりします。

30年も前のことですが、真冬に一人のホームレスの方が転がり込んできました。2週間ほど、食事を差し上げ、多少の交通費を出してあげて送りだしては、やはり勤め先を見つけることができなかったと帰宅します。しかしいつしか姿を消したその方はホームレス生活を本にまとめてホームレス作家となって、有名になられました。近くの本屋さんにも著書が新刊書としてうず高く積まれていたのです。念のため本を開いて私たちのことが書かれているかどうかを確かめましたが1頁も書かれてはいませんでした。それどころか一通のはがきも手紙も、皆無でした。でも彼は作家です。物書きなのです。こちらの善意が応えられること、感謝されることを、期待するわけではないのですが、やはりむなしいと言う気持ちは残ります。もう少しこちらが人間的に完成されていたら、違った形があらわれるかも知れません。結局はこちらの未熟さがこうした結果につながっているというほかはありません。

愛や友情と言うものはしばしば破れるのです。それだけに愛が答えられた時は嬉しいものです。そして愛は、まさに報いを期待してはならないのです。そうした愛の本当の姿を知っておられたのがイエス・キリストです。主イエスはそうした私たちに、マザー・テレサになれ。理想的な、報いのない、無償の愛に生きよと言っておられるのでしょうか。私の手には届くはずもない偉大な聖人になれと言われても、出来ないことです。

実はこれは主イエスの再臨、神による世の終りについて語られたところです。私たちはやがて死にます。もし我々が、徹底的に献身的に生きることができて、愛を徹し切れても、それで相手の心が動くとは限らないのです。相手が満足して、こちらも満ち足りることができるかと言えば、分からない。むしろ自分自身が、愛に徹底したと思うこと自体が、間違いかもしれない。そんな風に思われて愛されたら、やはりそれは重荷になるだろう。それほど自信に満ちた人といっしょに歩きたくはない。人間は、愛に関する限り、不十分、かつ、不徹底定なものに過ぎないのではないのですか。しかし人間の愛の計算は、死によって終わらないのです。自分は、本当は大切にしなければならない人を、願うほどに大切に出来なかった。周囲の人々を、こちらが願ったほど、幸せに出来なかった、かも知れない。計算どおりに、人生は運ばなかった。

こうした感覚は「こんなにやってあげたのに、まわりはこれを受けとめてくれなかった」と受け止めるより、はるかに健全でしょう。我々の愛の不十分さ、未達成な部分はどこまでも残るかも知れない。もしそうであってもよいではないか。ここでイエスが評価されているのは、小さな愛の事です。ここで主にほめられた人々は自分がどんなことをしたのか忘れてしまっています(37)。ごく日常的な愛の業。目の前にいる困りはてた人に一夜の宿を提供した。牢にいる人を訪ねてあげた。それがイエスに対する愛であったなどと思っていなかったのです。

キリスト教信仰とは全く無縁に見えるような小さな業。それらも、全てイエスに向けられた愛として神は受けとめてくださる。人に向けられた愛の業は、報いられないと言いました。でもそれが主イエスが受けとめてくださるなら、別です。主は全て報いてくださり、記憶してくださるのです。仮に誰も感謝しなくても、主イエスは喜んでくださる。そればかりでなく、それを言い表わし、評価されるためにやって来られるのです。わざわざ天からおりてきてくださる。

これは励ましになる言葉です。小さな愛。報われない愛。それでも愛に絶望しないで済むのです。意固地に自己主張して、自分を人々に印象づけることも必要無いし、いらつくこともないのです。だからこそ信仰がいるのです。愛や平和に無関心でいいはずがない。愛や平和はこちらが願ったとおりに、すぐに実現などしないかもしれない。その小さな愛に神の光がさすのです。こうしてチリーという国にも平和実現がかなったのです。

(2021年10月10日 礼拝メッセージ)

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