信仰にかけるとき

聖霊降臨節 第20主日

ヘブライ人への手紙 11:17-22

アブラハムがイサクを捧げに向かう場面

(創世記22:1-11)

ヘブライ書11:17-22は創世記22章の物語を新約聖書の立場から描いているものです。ヘブライ書の記者はアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフに至る信仰者の歩みをたどるわけですが、今日のところは特にその代表人物としてのアブラハムに焦点が当たります。この出来事はアブラハムの生涯最大の試練に直面した出来事について語られます。つまりアブラハムにとって最愛のイサクをいけにえとしてささげることが神によって命じられるのです。

イサクは神が約束されたアブラハムにとって唯一の子供、まさに神の祝福を寄せて集めた存在であるイサクを、焼き尽くす生贄としてささげるなど、アブラハムであろうとなかろうと受け入れがたい命令でした。神が与えてくださった子であるならいっそうアブラハムは 何があっても息子を守る。自分が身代わりになってもこの危機から子を守るというのが父としての、子に対する態度です。アブラハムも普通の父親としての思いがあります。いや普通どころかイサクが神によって与えられた子供であればこそ、その思いは通常の父親以上に強かった。むしろこの神の命令こそアブラハムにとっては意外なものでした。

17節に「信仰によって、アブラハムは試練を受けた時、イサクを献げました。」とあります。

アブラハムはよき信仰者だった。過ちのない信仰者とは言いませんが、過ちのない信仰者などいるわけもありません。

アブラハムはここで神を捨てるのか、イサクを生け贄としてささげることが正しい事なのか、恐るべき二者択一を迫られたという事なのでしょうか。私のような者なら最後まで迷い続け、しかし最終的な決断などできそうもありません。けれどアブラハムは、悩み悩んで神の言葉通りイサクを生け贄としてささげることに決断してゆくのです。

しかし、かけられた神の言葉をその通り実行したら アブラハムは旧訳聖書のバール信仰者と変わらない、凄惨な幼児殺人者となんら変わらないことになったのでした。 アブラハムはなおも語りかける神の言葉を真剣に聴き続けた。17節、18節をご覧ください。

17節「信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時にイサクをささげました。
18節「この独り子については、イサクから生まれるあなたの子孫とよばれる」と言われていました。
19節「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもお出来になると信じたのです。それで彼はイサクを返してもらいました。それは死者の中から返してもらったも同然なのです。」

アブラハムにとって神に従うのか、それとも神の言葉に反してイサクを守り抜くのかという二つの問いの狭間でついにたどり着いたのは18節の言葉です。

「イサクから生まれるものが、あなたの子孫と呼ばれる」(創世記21:12)

アブラハムはだれよりも息子のイサクを愛した。しかもイサクは神による約束の子供です。イサクを愛することは神を愛し、神に服従することと別なことではなかった。だから神を愛することはイサクのためにでもある。

アブラハムにとって、イサクを捧げるなどありえませんが、神はイサクを捧げよとは言われましたが、イサクを殺せよとは言っていないのです。それは場合によっては同じことでもありうる。でも神の言葉は例えようもなく深く、アブラハムを祝福するという神の愛は、アブラハムも深く了解しているのです。それは100歳を超えたアブラハムの生涯の中で深くアブラハムの心に刻まれていることです。

この理解しがたいアブラハム親子の身の上に起こった、この上なく耐えい難い試練の中でアブラハムは徹底的に神への服従を心に決めるのです。それは何らかの天からの啓示に基づく決断かもしれないし、聖霊の働きといっていいものかもしれない。そして信仰による服従はアブラハム自身や直面している苦境に劇的な変化をもたらすのです。そういうほかはありません。
信仰には必ず酬いがあります。客観的にはアブラハムが直面している試練は文字通り死ぬほどの苦難です。神への不平憤懣が爆発しても少しも不思議ではありません、しかしそれらしい言葉は一切ありません。イサクを犠牲としてささげよという命令を受けた翌朝アブラハムは朝早く起き、 イサクを全焼の生贄として燃やす薪を割り、イサクにそれを担がせて、生贄の山モリヤに向かって、二人の従者はロバと共にそこにまた政策と礼拝をしに行くからそこで待てと命じます。イサクは自分を焼き尽くすかもしれない薪を持ち、アブラハム自身は子供を切り裂く刃物と火だねをもっていよいよ出発します。

3節「次の朝早く起き、アブラハムはロバに鞍をおき、ささげ物に用いる薪を割り、神が命じられるところに向かっていった。」
淡々と神の言葉に沿って、行動するのです。

4節「三日目になって」 ・・・なんという三日間だっただろう。
6節<二人は一緒に歩いていった。>

7節いよいよイサクがこの儀式はおかしい。儀式に使う動物がいないのです。 疵のない、しみのない羊はどこにいるのです?
8節<きっと神が備えてくださる。>
これは苦し紛れのいい加減な答えとも取れます。しかしアブラハムは無責任で、無慈悲な言葉として語ったのではないと思います。
<子よ、きっと、神が備えてくださる。>
これはイサクに語ったのでなく、アブラハムは自分自身か、神に語っているようにも聞こえます。神さまへの心の底から希望と信頼をここにかけている。深いイサクへの愛をこめてもいる。この一言こそ、アブラハムのこれまでの失敗を経験したからこその経験と存在がかけられている。

誰が見ても、どうにもならない瞬間に、神への希望を捨てないアブラハムは行く先も知らずに出発したと、アブラハムを伝えるヘブライ書の11:1「信仰とは望んでいる事柄を確信し見えない事実を確認することです。」と述べられています。絶望しか見えない現実の向こうには、神の救いがあるのです。13節に神は一頭のおひつじが角を引っ掛けています。アブラハムはこれには気づかないでいましたが、神が世界を手におさめ、支配し、備えてくださること、供給してくださることを信じていました。

22章は1節神の求めにアブラハムは<はい>で答えます。11節に<はい>で答えるのです。せっかく与えられたこの息子をしに追いやらねばならないかもしれない状況に、なお、神へのハイを貫いたアブラハムにあった神の計画への真実。希望の見えない今こそ学べないでしょうか。

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