天を目指して

ヨハネの黙示録 7:9-17

ヨハネはこの黙示録を地中海、トルコ南方のロード島の西にある孤島パトモス島という南北16キロ、東西9キロの孤島に流刑囚として迫害下にあった時に執筆したといわれています。

それまでの時代、たとえばローマ皇帝ネロによる残虐な見せしめのような迫害はあったものの、それは突発的、部分的な迫害で済んでいたのです。しかしながら81年にドミティアヌスが皇帝に即位すると、この人はローマ帝国全体に皇帝礼拝を強要し、従うことを拒否した市民を処刑し始めたのです。口頭でも文書でも、ドミティアヌスを宛名にする場合は<すべて主であり、神である皇帝ドミティアヌス陛下>と呼ばねばならなくなったのです。ある注解者は、なんらかの競技・レースで皇帝のチームをやじっただけで、ドミティアヌスの神性を軽蔑したとして死刑に処せられたと紹介しています。さらにドミティアヌスは警察権を用いて絶対的な忠誠と、宗教的崇拝を強要したのです。そのことは大半の人々にとって、多神教徒ですから、べつに問題はなかったのです。ためらいも、躊躇もなく、これに従うことは当然の常識でもあったのです。ただ真実な信仰者であるキリスト者にとっては命をかけることになったし、この皇帝下にあっては帝国あげての迫害で逃れる地さえなかった。

90年代、やっと安定を迎えようとしてさらなる宣教に向かおうとしていた教会にとって、これは始まったばかりの深刻な問題でした。

そこで7章に述べられている出来事を見て行きます。ローマ帝国中に、かつてないない迫害の嵐はこれから吹くのです。しかしこの情景は迫害はすでに過去のものになった姿です。ペトロ、パウロはすでに殉教しし、一般の信徒も次々と妥協し、あるいは信仰を捨てて生きます。迫害はますます厳しい状況を教会にもたらし、礼拝の出来る場所も転々と場所を変え、秘密を守らなければならなくなっていたでしょうし、地下の墓場カタコンベの礼拝もあちこちで行われるようになっていった。けれど皇帝礼拝が、キリスト教礼拝に変わることはなかった。皇帝礼拝に真理性があると信じる人はおそらくだれもいなかった。皇帝がキリスト教で言う神であるはずがなかった。厳しく問われるほど、福音の真理に人々は目覚めて言った。

ヨハネはこれからローマ帝国で行われる迫害をすでに過去のものと見ていた。迫害がこれから何十年か、ことによると100年を超えてあるかもしれない。でもこんな愚かな強要に身をゆだねるわけには行かなかった。人は生きている時代の中で、今の出来事があたかも絶対であるかのように思うのです。ヒトラーの第三帝国は千年続くとナチスの高官達は考えていたようです。当時のドイツの大半の人々もそう思えていたかもしれない。また東ヨーロッパの体制が揺らぐなど、1989年の私たちには全く思えなかった。自由化が実現しようとしたとき、不安と期待が交錯したものです。ましてやローマ帝国が傾くなど、ヨハネが言ったことは、法螺も法螺、大法螺と聴こえたはずです。教会が生き残る可能性はゼロだっただろう。しかしヨハネは教会の圧倒的勝利を予告したのです。

だからこそ、これは神の啓示でした。何の確証も見えない。可能性はゼロどころかマイナスでしかない。絶対不可能だ。しかし信徒は信仰を守り、敵の敗北を確信して堂々と殉教していきました。軍隊の中でも、兵達は信仰を明らかにしていきました。1箇所教会が摘発されると、信者が散り、別の何箇所かで集会が始まりました。迫害されれば、迫害されるほど、教会は増加し、信徒を増やしました。

以前イタリアから帰るとき、沈む太陽の中に、まったく見えなかったアルプスの稜線がくっきり見えたことがありました。じっと目を凝らして、信仰に立って物事を見ることは大切だと思います。信仰によって物を見ると、否定的に見ることにはなりません。時が必要になるかもしれない。

逆転は現代でも起こります。他ならぬ中国の宗教事情です。朝日新聞ですが、中国のキリスト者は、いまや1億を越すのだそうです。中国はいまやキリスト教国だと書いています。中国において、その支配体制はキリスト教を心から歓迎するとはいえないでしょう。でも今、中国は福音を必要としています。報道によれば2030年になるとキリスト者数は3億人を超すといわれています。

またインドでカースト体勢を改善しようとしないヒンズー教を嫌って、仏教を選ぶ人とともに、キリスト教徒が3,000万を越すと述べられています。

ヨハネは夢を見た。信仰の夢です。私たちもいっそう心して神を見上げるとともに、信仰の夢を見てもいいのではないか。ヨハネの夢は実現し、やがてローマ帝国がキリスト教を国教に定めます。むしろそこからが問題だった。キリスト教は権力を持つことはありません。必要以上の財力をもつこともない。もっと大きな夢を抱いて、福音を生きることは我々が、見失っていることではないでしょうか。

(2021年10月17日 礼拝メッセージ)

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