あなたが必要だ

マタイによる福音書 4:18-22

ガリラヤ湖のほとりで網を打っていた漁師<シモンと兄弟アンデレ>にイエス・キリストがスーッと近づいてきて、「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられました。二人はすぐに網を捨てて従った。さらに別の二人の兄弟ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に網の手入れをしていたのをご覧になって二人を呼んで「わたしについてきなさい」といわれます。彼らのそれぞれの心境はどうだったのだろう。彼らの言葉は何も記されていません。雷に打たれたかのように、自分たちがキリストの弟子としてふさわしいのかどうかを吟味する余裕もないまま、キリストについていくことになったのだろうか。

この4人-シモンペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ-は全員漁師でした。マタイとマルコ福音書では特にこの4人の召命物語をその冒頭に掲げます。この漁師出身の4人の人々は主イエスが特に御そばにおいて重んじた弟子となっていったのです。この4人の召命―キリストの弟子に召される出来事―は、われわれ自身がどうキリストに導かれたかを覚えないわけにはいきません。

人にはそれぞれキリストに導かれた導かれ方があります。教会に行きたいと願っていても、仕事や家庭環境で長年その思いが実現できないでいるときがあります。あるいは、教会に行くと思っても教会の敷居が高く感じられてなかなか決断がつかず、思い悩むときがあったり、いつか教会からは遠ざかっていたという期間がある方もあるかもしれない。けれど教会にたどり着けばなんと言うこともなく喜んで教会生活がスタートできるということもあります。

私は府中で20歳の年に、狭く砂ほこりだらけのそろばん塾の二階で礼拝を持っていた、10名にも満たない小さな伝道所のような集会に行き始めました。今から思うと極端なほどの原理主義的な信仰者であった、アメリカ人のミス・Rが指導する礼拝に参加し始めた。その信仰の純粋さと献身的な姿に心打たれたからでした。その年、夢中になって聖書を読みはじめました。最初の1年で聖書を通読しました。勧められるままに祈り方も知りませんでしたが祈祷会に出席し、それ以来教会の礼拝に出られなかった日はほとんどありません。しかも府中の教会には戦前の由木教会で信徒伝道者をしていたAさんがおられて、昔の由木教会の話を何度も聞かされました。

その上、数年して、府中教会が、吉田観賞魚の鯉のせり場で午後の日曜学校を始めることになり、私は当時しばしば聖書学院の学生の方と由木に来るという導きになったのです。神さまはわたしが牧師になる前から由木への導きを持っておられたと言うことが、今になってわかるのです。

私はなぜクリスチャンになったのか。むろん一つ一つわたしが決断して教会に行き、聖書を読み、洗礼を受け、牧師にはなったのです。ですが、根本的には、わたしの決断ではなかった。この4人の漁師のように、あれよあれよという間に、キリストに導かれ、引っ張られキリストの計画にからめ取られたからです。この信仰の道を歩んでいるのは、自分の力でなく、全く神の導きだったのです。

それは私ひとりのことではありません。神の導きとはそういうものです。皆さん一人ひとりに神様は計画をお持ちなのです。むろん神さまはそれを押し付けやしません。個々の自由意志を重んじてくださるのです。旧約の預言者エレミヤが召命を受けたとき、「主の言葉が臨んだ。わたしはあなたを母の体内に造る前からあなたを知っていた。母の体から生まれる前に私はあなたを聖別し、諸国の預言者として立てた。」 1:4,5

この4人の人々は漁師であった。キリストはなぜ漁師を弟子たちの最も身近な、中心として選ばれたのだろうかと思います。漁師の仕事は本来きびしく、報いられない仕事です。スーパーでさんまを見るたびに 一匹100円の秋刀魚を取るために命がけの漁がおこなわれていることを意識せざるを得ません。ましてやヒエラレキーの序列が明確だった当時の社会で、漁師の位置は高くはなかっただろうと思います。キリストの弟子となった人々には徴税人もいました。税金を集める仕事は国家にとって大切な仕事です。けれどローマのための税金をユダヤで集める仕事とは誇れる仕事ではなかった。嫌われる汚れた仕事と取られていた。それでも徴税人をするというのは、それを覚悟で金儲けをするという人々。ますます嫌われたのです。(マルコ2:15 岩波訳そのような人々)

キリストの弟子として声をかけられ、御そばに導かれたのは、普通の人々からひどく嫌われ、見下されていた徴税人や罪人と呼ばれる人々が入っていました。日頃から長いローブを身にまとってローマ人と見ればローブの中に隠し持っていたナイフで殺そうとしていた熱心党の人。心を病んだ人々、まだ足を洗え切れていない人も含め、主イエスはそうした人々を弟子にしていった。世の中で道を失った人々、ハグレ者がやっと主イエスによって自らの居場所を見出したのです。基本的には主イエスはそうした人々に自分から声をかけて、弟子にしていかれたのです。ですから、きっと声をかけられた人々はうろたえた。「自分はそんな者ではないのに」「キリストの弟子になれるはずもない者なのに」。そう思うのです。

神が私たちを選ばれたのは、われわれになにかマシなところがあると言うことではないのです。教会にはその時代、むろん社会的に裕福で身分の高い人もいて主イエスの伝道活動に協力する人もいました。 奴隷の身分の人々も多くいました。つまりエリートもいればそうでない人も多くいた。それどころか奴隷階級の人々、あるいは罪びととして差別を受けている人もいた。人はどんなに富んでいようと、社会的身分が高かろうと、じつは罪びとです。人という存在は自分がつまらない心貧しい人間ですといいつつ、内心では一角(ひとかど)の人間と自負している人もいます。

“キリストに従ってゆく歩みを”と主イエスはこの4人に命じました。キリストの言葉に従ったとき、ルカ5章では驚くほどの収穫が与えられシモンペトロはそのあまりの漁獲に驚嘆した、という出来事が語られています。主イエスに従う生活には途方もない収穫がある、主イエスはそういわれます。こんなに驚くほどの収穫がある。私が言うとおりにすれば、だめだと思っているあなただってやれるのだ、そういわれるのです。

ヨハネ福音書の冒頭を見ると洗礼者ヨハネが主イエスを見て「あの方こそ、世の罪を取り除く神の子羊」といいます。そうして二人の弟子達(ひとりはアンデレとヨハネは書いてありますが)はなんとなく主イエスのもとに行くのです。主イエスは二人に聞きます。<あなたは何がほしいのか、何をしてもらいたいのか>。二人はなんと言っていいかわからないので、<あなたはどこに泊まるのですか?>というわけのわからない質問をします。でもそうして主イエスの弟子になっていったと書かれています。

よくわかって、主イエスの弟子になっていくような人は居ません。信仰生活、分からないことばかりかもしれません。私たちはこの方によって人生を開かれて今があります。イエスキリストの十字架によって、人生の救いが開かれたのです。キリストは、道であり、真理であり、命である、と言われました。

キリストはガリラヤ湖のほとりで、ただ「ついてきなさい」と命じました。キリストとともに歩き続けるときに、キリストの恵みを味わうことが出来る。キリストに向かいつつ、キリストとともに歩む道を歩み続けよう。

(2021年01月17日 礼拝メッセージ)

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