こころも思いも一つにされ

使徒言行録 4:32-37

聖霊が弟子達に注がれたといいます。それは神の新たな事業のスタートとでもいう神の出来事でした。クリスマスにおいて、マリアは主イエスを身ごもりましたが、ペンテコステにおいては弟子たちに聖霊が宿ったのです。エルサレムの二階座敷で、ペトロを中心とする弟子たちは、主を裏切って逃亡したことを恥じ、自分たちのふがいなさに腹を立て、それでも行く場所もなく、身を寄せ合っていました。といって、だれかを責めるという状況ではなかった。そこで、ユダの裏切りと死で欠員になっていた使徒職にマティアという無名の人をくじ引きでひきあてたのです。

そして祈り続けた。程なくしてペンテコステの日を迎えたのです。
(2:1-4,5-13)

ペトロはいつしか11人の仲間とともに立って、説教をしていたのです。

ペトロが説教すると3,000人もの人々が回心したのです。ペトロにそれほどの結果を引きだす力があったわけではありません。彼は相変わらず他人の影響を受けやすく、決心もぐらつくところは、この後もやむことがなかったのです。徐々に迫害の手が伸びると、恐れもしたことでしょう。迫害は初めギリシャ語を話すユダヤ人に加えられましたから、ペトロは教会の人々の理解をいただきながら、活動していきました。最後にローマでいよいよ迫害の足音が近づいてくると彼はローマから脱出を図ったといわれます。その脱出の途中で、ペトロは夢か幻かわかりませんがローマ市内に向かうイエス・キリストにであったといわれます。
「主よどこにお出でになるのですか」「クオ ヴァディス、ドミネ?」
とイエスにたずねます。 主イエスの答えは
「私はあなたに代わって、わたしは再び十字架にかかりに行く。」
ペトロは目を覚まされたように即座に脱出を放棄して踝(くびす)を返してローマに帰って行きます。その場所を記念してクオ ヴァディス、 ドミネ教会という小さな古い教会が建てられています。そこにはイエスの足跡と称する石の彫刻が在ります。数年前ローマを訪ねた折、この教会を訪ねました。イエスの足にしては大きすぎる四、五十センチの足跡。勿論それは誰かが作った大理石の足あとです。でもよく考えるとその教会はアッピア街道に面した場所にありますが、その教会から徒歩数分の場所にローマでも有名な巨大なカタコンベ地下墓所があります。ペトロはそこで、地方への逃亡を選ぶか、信仰を選ぶかの選択を迫られたのだと思います。ローマでの死刑は凄惨を極めたといわれます。ローマから避難することは責められることではなかったと思います。でも多くの人々はローマでの信仰を選んだ。

ローマの教会は一種の緊急共同体ではなかったのではないでしょうか。徐々にそうならざるを得なかった。ローマ人といっても私たちと全く違う人間ではなかった。いくら違った宗教を信じる人とは言え、生きている人々をライオンに食べさせたり、たいまつ代わりに焼き殺すことがいいとは、誰も考えなかった。五賢帝の一人マルクス・アウレリウスの自省録など読むと、どんな時代にも理性や良識に生きる人々がいたことがわかります。

そうした社会の中で、教会ではあるべき理想の姿を模索していったのでしょう。エルサレムの教会では、誰一人、持ち物を自分の物だというものはなかったとあります。しかし「持ち物」とある以上、個人の所有物であるに違いありません。制度化されたり、規則で規定した(強制された)ものではなかったと思います。単に霊的なものでもなく、愛の共同体が生まれていったのです。教会がキリストの体であるなら、信じた人々の群れは、心も思いも一つになった。持ち物を自分の物だといわなかった。確かにそれぞれ自分の持ち物を持っていた。けれどあくまで自分のためだけに使って、他人のためには指一本動かさないというのではなく、教会という共同体に心と思いをひとつにしていた。

教会共同体というものは様々な形があるのだと思います。ですからいつもここに起こった形が実現していなければならないというものではないと思います。つまりこの形は制度化も規則化もされなかった。信じた群れは心と思いをひとつにしたというのは基本であると思います。神はまず愛に満ちた共同体をつくり、そこから宣教の業が発展する。

「ひとりの貧しい人がいなかった。」というのは、とりあえずパンと水とワインが、人々に振舞われたと言うことでしょう。一切れのパンと水とワインを人々は喜んで食べた。「こんなもの…」と言わない喜びを心にいっぱいにして、周囲の人々と喜んで生きたのです。

すると、人々は自発的に、自分の物を捧げ始めた。土地や家や不動産を自発的に処分して使徒たちのところに持ってきた。それはこの時、それを必要とするとても生活の困難な人がいたからだと思います。今の由木教会にはそうする必要は全くありません。実際にはこうした献金はするほうも受け取る教会側も意外と難しいものです。不動産、家、土地というものは桁が違います。捧げた側は、捧げた後も力を持ちます。結局そこに主従関係ができて、捧げた側が事あるごとに、発言力、影響力を行使すると言うことがありうるのです。だれが捧げたかは全く忘れて、捧げた側も、受け取る側も、愛の交わりに生きていくことがなされなければならないのです。

生まれたばかりの教会がまさに愛の業と宣教に徹して、つまらない影響力や、発言力を封じていったことこそ、神の業がそこに現れたことでもあったと思います。それが象徴的に現れた一つの例が、バルナバ・ヨセフの例です。バルナバはレビ人(びと)でした。レビの家系に属する人々は祭司に連なる家系ですから、本当は土地を持たないのです。しかし実際には祭司階級は富裕層で、多くの土地を持つということがありえました。ヨセフ、つまりバルナバは教会の必要を知りました。神に示されたのです。彼は土地を売って、その代金をすべて神に捧げたのです。こうした事を行ったのはバルナバが最初の人であり、財産があろうとなかろうと、そうすべき義務は誰にもないのです。あくまでそれはバルナバが神に示されての行為でした。

バルナバという人は、キリスト教をローマ帝国全体に述べ伝えていった、初代教会にとって恐るべき迫害者、パウロをさえ教会に導きいれた人でした。パウロはエルサレム教会に受け入れられるには難しすぎる人でした。かつてのパウロによってどれほど多くの人々が傷つけられ、死刑に処され、家族を失うという悲しい経験をしたか、はかりしれなかった。神様はこのパウロを迫害の息弾ませていたその現場で、回心に導くのです。最もふさわしくない人が、歴史上もっとも偉大な宣教者として記憶され、日本の世界史の教科書にも登場します。バルナバは教会に迎え入れられないパウロを故郷のタルソに探しに行き、シリアのアンテオケ教会に迎え入れます。そしてパウロは3度の世界伝道旅行を行いますが、最初の伝道旅行は、バルナバがパウロを連れ出したのです。

「バルナバ」とは「慰めの子」という意味です。バルナバはパウロを教会に導き、第2次伝道旅行に関して、甥であるマルコを伝道旅行に連れて行くかどうかで、パウロと激論を交わし、ついにパウロとの伝道のパートナー関係は壊れるのです。パウロは相手がバルナバであろうと、最初の伝道旅行で逃げ出したマルコを信用しません。しかしやがてマルコは福音書を現し、またパウロの大きな助け手となってパウロ書簡のあちこちに登場します。しかしこのマルコがそうなるためにバルナバのとりなしと奉仕は欠くことができなかった。バルナバがいなければ、もしかするとパウロはいなかったかも知れず、マルコもいなかったかもしれない。こうしたバルナバだからこそ、この献金も活きることができたのです。

教会は信仰と愛の共同体です。誰もそこから一方的に利益を引き出すことはできないし、教会の主であるイエス・キリストの命を豊かにいただいていなければならないのだと思います。教会においてはペトロもヨハネも、パウロもバルナバも、マルコも私たちも、今の自分の姿がどういうものであるかは問題ではないのです。ここには神の力が働くのです。そして神の意図が働くとき、ペトロが変えられ、パウロが変えられます。私たちは謙遜に神の働きを祈りの中に待ち望みましょう。

(2021年06月27日 礼拝メッセージ)

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