心ひらかれて

ルカ福音書11章14-26節

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20節の、「しかしわたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている。」の言葉が、今日、私たちに与えられていると思っています。

あのザアカイに向かって主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」(ルカ19:9)と言われました。じつは主イエスはザアカイに対するのと同様に、私たちを訪れて、救いを届けておられるのです。ユダヤ人たちは長い間、神の救いを待ち続けた人々ですから、この言葉を非常に喜んだのです。主イエスは国中を巡りながら、この救いを人々に届けました。多くの人々はそのイエスの姿を見て、イエスを受け入れ、その救いに与りました。しかしそう受け止めなかった多くの人々もいました。信じなかった人々には怪しげな扇動者くらいにしか見えなかったかもしれません。神の救いとは神の支配のことです。不安や恐怖やおののきが人を支配するのでなく、神は平和と愛と、共感で人を包むのです。主イエスの時代の人々は神の支配を「神の国」といいました。主イエスとともに神の国が来るのです。私たちが神を信じる時に、神の支配が私たちの身に及ぶのです。

私は母のことを思い起こします。亡くなる10年も前に、母は胃がんではないかと死の恐怖におののいたのです。落ち着きを失い、家事は全く手がつかなくなり、おののきで顔つきが変ったのです。それは根拠のない恐れでしたが、検査が終わるまで日々の生活ができないほどでした。結果は白でした。何事もなくそれは忘れ去られていきました。しかし十数年経って、今度は正真正銘の食道がんが見つかりました。見つかった食道がんはもう進んでいたのです。レントゲンの写真では、食道は細くでこぼこにガンに侵食されていました。余命3ヶ月と伝えられました。実際にはそれから2年近く生きることができました。
母は兄夫婦と同居していましたが、私が毎週、府中病院に母を伴いました。やがて入院となり3ヶ月、わたしは毎日病院に泊まりました。母はその間にキリスト者として生まれ変わっていました。以前とは違い、精神的に平安と勇気を保ち続け、驚くほど微笑を絶やさなかったのです。そして意識のあった最後の別れで、すでに話はできなくなってなっていましたが、大きく口を開けて「ありがとう。」と言ってくれました。主イエスは神の国が人間のうちに来ると言われましたが、信仰に生きるとき、事実として神の国がその人にもたらされ、実現するのです。

主イエスは「神の国はすでに来ている」と言われます。イエスと共に神の国はたしかにあなたがたの所に来ているのだとすれば、それを心にしっかりと受け止めるべきなのです。そうすると、事柄がまるっきり違ってくることがある。たとえガンになったとしても、受け止め方が、私の母のように全く異なる。人間の心の奇跡のようなことがあります。

「しかしわたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている。」(20節)
主イエスはそう言われます。主イエスが言われるのですからそうなのでしょう。それはもう「アーメン。」と言うべきです。でも、なお悪の力や罪と死の力が我々を、人々を支配しているように見えることが多々あります。しかし私は、やはり主イエスの言葉を信じたいと思います。リビアのカダフィのような独裁者が次から次へと現れ、国民の命など虫けら同然くらいにしか考えないリーダーがあちこちに出現します。支配は長続きしません。強く見えそうでも、泡のように出てくると同時に消えていきます。それはまことに泡沫(うたかた)のようなのです。

こうした時代の中に、人々を私利私欲や欲望に向かわせる大きなサタニックな力が無いのではない。人が罪と死に打ち勝つ力があるのかどうかと問わざるを得ない。キリストの十字架はまさにその巨悪に打ち勝って、罪と死を打ち滅ぼしたのです。それはパウロ的な表現では、宇宙的な戦い、全世界を二つに割るような大きな戦いなのです。そしてキリストがそれに打ち勝ってくださったのです。
だから、神の支配は私たちに及んでいるのです。私たちの状態や状況がいいから神が近くにおられるというのでもありません。わたしたちが病気であろうと、経済的にどうであろうと、子供たちが受験でうまくいこうとそうでなかろうと、神は私たちの近くにおられ、わたしたちを覆っているのです。

これを知っていることと、自覚しないことでは、人生の生き方は随分違ってしまうでしょう。私たちは信仰の目を働かせてこの事実を見つめるべきなのです。キリスト者でない人々は、そうした信仰の目などというものは、迷信のような、正しい真実を見つめるものではないと言います。そして自分たちが信じているものが正しいと言います。やはり何かを信じているのです。学問もありますし、政治的な判断の仕方というものもあります。けれどそうした見方が、結局は正しくなかったということがときおりあります。
かつてベトナムをB52で爆撃したアメリカの国防長官だったマクナマラという人は「あれは間違った戦争だった」と言いました。数十万から100万人のベトナム人が亡くなった戦争を「間違っていた」という言い方は、正直であるにしても恐るべきことです。
少なくも今日、私たちは神による信仰の目をしっかりと保持したいものです。忘れかけている人は思い出して下さい。我々が知らない間に、我々を覆いつくしている神の力に気がつきましょう。上も下も右も左も、神が我々を包んでおられます。病気であっても、失意の中でも、神は我々を決して見捨てません。困難なときこそ、神を知る機会なのです。

神の力がそうして我々を囲んでいても、それを我々が知らなかったら、それを受け止めなかったら、我々の力にはなりません。感謝を持って受け止めるのです。思えば私たちの人生は自分の力、自分の考え、自分の願いで生きているように感じがちです。でも人生は生かされて始まったのです。私たちの人生は神の導きの中で支えられ、教えられ、励まされ、出会わせられ、そして今があります。そんなことはわかっているつもりです。でも頭でわかっていても、生き方では分かっていない。納得していなかったりします。こんなはずではなかったと、悩み、苦しみ、空しい思いに駆られます。わたしたちの人生の中で、キリストが私のところに来てくださったから実現したしるし、証しは、じつは沢山あるはずです。神の指が皆さんの内側に、人生に働いているのです。それを見つめるべきでしょう。

「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入れない。」(マルコ10:15)
生まれたばかりの赤ん坊が、何の根拠もありませんが、母親に対して「この人は絶対的に頼ることができる人だ」とする基本的信頼を作り上げることが、生涯にわたって安定した人格を築く基礎となるといいます。生まれたばかりの赤ん坊が、全く疑うこともない素直さで大人を信じて、ものを吸収していく。たちまち言葉や習慣を身に着けます。そこにあるのは信頼関係です。しかし、「その大切な時期に親が精神的に不安な状態にあって、赤ちゃんが親との間に信頼関係を築けなかった場合、思春期を迎えて心の問題を持つ人もいる。」と、クリスチャンの精神科医が言います。
神の指が働くとき、素直な赤ん坊のように、神に信頼しようではありませんか。神はそのときを待ち受けておられるのです。

2023年3月12日 礼拝メッセージより

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