生涯をかけて、信仰を生きる!

わたしはキリスト教信仰を生きることを通して、とても多くのことを得た。当然のことながら、だれか特定の人を憎悪したり恨んだりするこだわりからも自由にされた。それはキリスト教信仰を生きることの大きな特典だと感じている。単純で、深みに欠ける人生と言われてしまえばそれまでだけど、日々に生きることは感謝で喜びに満ちている。

 それでも、日々の営みの中で多くの苦悩や、吐き出さずにおれない心の痛みの中にある多くの人々にも出会った。癒されがたい心の痛みや悩みも、キリストに出会うことで癒され越えられうるということも経験してきた。

ところが同情し、励ましの言葉を投げかける中で浴びせられたのが、「あなたはこんなつらい経験をした事がないから私の悩みなんか分からないでしょう。」
子供が生まれていない若い時、「子育てがどんなに大変なのか、子供のいないあなたには分からないでしょうが…」「あなたのお子さんはまだ幼いから受験競争の厳しさは少しも分かっていない。」
お子さんが結婚した方から、「嫁が来て、同居して姑になった私の気持ちがあなたに分かるはずはない。」

 人が歩んで行く道は日々変わってゆくから面白い。同時に、たとえどれほど元気で健康な生涯に恵まれていようと、人はその歩みに終止符を打つことになります。人はここでこそ信仰をもって生きてきたことの意味を、地上に残される人々に向かって「人生は生きる価値のあるもの。神への信仰は人生に欠かすことのできない重い意味を持つもの。」と言えば、あとに続く人々は喜んでこれを継承できるに違いありません。そして忘れてはならない。教会にはそうした模範者がしっかりとおられる。

 キリスト教信仰には長い時間をかけて成熟、熟達する一面と、一瞬にして人を生まれ変わらせることができるもう一つの作用があります。神は一瞬にして迫害者サウロをパウロに変え、全身入れ墨だらけの者をキリスト者に変える。信仰こそ可能性を創造するのだから。

2023年5月28日 週報の裏面より

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