キリストに従う

ローマの信徒への手紙 7:1-6

パウロは優れた伝道者でした。この人はもとはといえばユダヤ教原理主義者でした。キリスト者を憎んでいました。やがてキリスト教会が徐々に信徒を増やしてゆくと、ユダヤ教側はキリスト教徒を暴力的に迫害するようになってゆきました。回心する前、サウロと呼ばれていた後の日のパウロは、いつともなくキリスト教徒を迫害する働きの中心に立っていました。当初キリスト教会は、ユダヤの神殿の一角で礼拝をしていました。教会は、ユダヤ教からの迫害を避けるためもあり、自分たちが新しい、ユダヤ教とは遠くない存在と印象づけていた。ペトロは最初の説教をエルサレム神殿で行った。教会では旧約聖書を読み、少なくも70年の神殿崩壊までは讃美歌もユダヤ教に近いものだったようです。

ただ単に距離的に近い、けれどつきるところ別物であるというありかたは時に激しい拒否感や嫌悪感を生み出すことがあるようです。かつてのサウルはキリスト者を許すことができなかった。サウルは隣国のシリヤにまで出かけて行き、キリスト者の男女を問わず、縛り上げ、迫害と殺害の息はずませてエルサレムに連行する勤めに必死になる。

サウルがそのままのサウルであり続けたら初代教会は大変な危機に落ちたことでしょう。シリヤからアンティオキア、小アジアとせっかく伸びかけていた若芽のような初代教会は、ズタズタに切り裂かれてしまったかもしれなかった。ところが神はそのサウルを180度、回心させるばかりではなく、初代教会最大の宣教者・そして神学者として福音をローマに伝えさせるという驚くべき出来事を実現するのです。

キリスト教会の始まりにユダヤ教との違いを鮮明にしなければならなかった教会ですが、教会はパウロを中心に盛んな宣教活動を進めてゆきます。けれど同じキリスト教会の枠内に留まりながら、やはり異邦人と選ばれた民であるユダヤ人には人種的格差があると言い張る、そう信じてやまない人々との間で大きな争いが起こりました。差別意識は主イエスの語られた福音の本質と相いれないのです。パウロはガラテヤ書3章25-29で、神の前ではユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もない、男性も女性もない、と断言します。

そこまで断言するパウロと、あくまで「ユダヤ人こそ割礼を受けた律法を重んじる選民」という律法主義を捨てないキリスト者とは溶け合いません。パウロが書いた手紙の中にフィリピ書というのがあります。そしてこの手紙の中で驚くべきことを告白しています。大多数のパウロの友人たちは、この投獄に同情し、できれば投獄が福音の前進に役立ってほしいと願っている。パウロはこの手紙をおそらくローマから書き送ったらしいのです。かつてフィリピでの投獄では獄中の囚人ばかりか看守まで神を受け入れて洗礼を受けました。ところがそうでない人々がいる。中には「自分の利益を求めて獄中の私をいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている。」

本日のテキストはパウロは「兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが…」と話し始めます。

律法主義・律法主義者は良くありませんが、律法の中身は私たちは通常の礼拝で重んじている十戒です。それは神を真実に受け止める者にとっては必要であり、美しくもあります。特に第2戒、第4戒(讃美歌93-3)
この美しい十戒を自らの人種的な存在に根拠というような狭い人種主義のよりどころにしようとすると、かつてのサウロのような迫害と殺害の息まではずませることになります。

パウロは7章の冒頭で夫婦の向かい合いを律法との関係で説明しようとします。2節-4節
この書にかれている内容は女性が男性に従属する関係として説明されているので現代に生きる我々としてはそのまま受け取ることにはなりません、

今年の4月末にコロナ感染が急増して、安倍首相が「緊急事態宣言」を出した頃、江戸川区に住むある夫婦に事件がが起こったのです。地元では若いころからおしどり夫婦で知られていた仲の良い夫婦だったそうです。夫は建設会社勤務でこのコロナ禍で仕事が減ってはいた。その分妻の収入に家計は依存していた。その日夕食からいつものように晩酌をしていたとき、妻が珍しくどうやら夫の働きについてふと不満をもらしたらしい。それまで夫婦間では何の問題もなく、夫婦の言葉遣いもとても丁寧だった。11時過ぎにふと妻が漏らした言葉に夫が激高して妻の顔を殴ってしまった。妻は椅子から床に転倒し後頭部を打ち付けそのまま意識は戻らず搬送先の病院で帰らぬ人となってしまった。

わたしもある牧師が妻を殴るその場に立ち尽くしたことがあります。偉い大先輩の先生でしたからわたしは何も言えなかった。誰であろうと、どんなに立派なこと語ろうと、暴力をふるったら、手を出したほうの負けです。

4節「こうして、私たちが神に対して実を結ぶようになるため」

パウロがあのまま迫害者として多くの人々を捕え殺していたら、ある日、走馬灯のように痛めつけた人々の顔を思い浮かべたでしょう。

それでおわったなら、それはみじめな生涯であったに違いない。でもそうはしなかった。人には克服しがたい弱さがあるかもしれない。

だからこそ神の前に歩み続ける、実を結ぶことを求めながらイエスの足跡に続く。

(2020年08月30日 礼拝メッセージ)

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