乾いている人は誰でも来なさい

ヨハネ 7:37-39

7章10節のト書きに〔仮庵祭でのイエス〕とあります。イスラエルはその起源(始まり)は砂漠の遊牧民達でした。やがて彼らが約束の地としてパレスチナに定住し、遊牧から農耕生活に移るという大きな変化を遂げたのです。実は申命記26:5(p320)にモーセが神から与えられた申命記律法を民に語る部分があります。その折にイスラエル民族の起源にはこうなのだと告げるのです。

「あなたは主の前で次のように告白しなさい・・・ つまり私の先祖は滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトにくだり・・・」 と語っています。滅びゆく一アラム人を新しい共同訳では<さすらいの一アラム人>と訳し変えています。アラム人はアラム語を話しました。そうイエスキリストも、母マリヤもアラム語を話した。ヘブライ語ではなかった。現代でも古代のアラム語を話す人々もあり、またウイグル語などもその流れをくむ言葉の一つと言われています。

<祭りが最も盛大に行われる終わりの日に>とわれています。時は仮庵の祭り。仮庵-仮の庵(いおり)、庵といっても、この時代ではむしろ聞いただけでは分からない人のほうが多いと思いますが辞書には草木を結んで作った仮の家、または僧の仮住まい、とあります。聖書では出エジプトしたユダヤ人達が40年の荒野生活を強いられたとき、定住の家がなかったのですから来る日も来る日も仮住まいだった。これを記念する祭りです。今でもイスラエルではもちろん、アメリカでも熱心なユダヤ教徒は、庭に木の枝や葉で仮小屋を作って、一週間そこですごす人があるようです。いわばイスラエルの原点を確かめ、辿るお祭りといえます。

<祭りが最も盛大に行われる終わりの日に>とは仮庵の祭りの最高潮のときです。「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」
祭りは7日間続きます。最後の、最高潮のところで主イエスは「わたしこそいける水である、わたしから飲みなさいといわれた。」

ユダヤの大きな祭りですからみんな喜び楽しんでいた。お酒があり、食べ物があり、屋台が出ていた。ふんだんに食べ物があふれかえる祭りの中で、人々は笑いながら「昔の祖先はよく耐え忍んでくれたね。荒野の旅は水がなかったんだよね。食べ物がなかった。こんな不便な仮住まいで、砂漠の中を旅から旅へとさすらうしかなかったんだもの。」
それは昔話でしかなかったでしょう。一種の反語のようなものだといえます。つまりそういいながら、でも今はちがう。今はイスラエルにはふんだんに水がある。食べ物もたくさんある。自分達は選民として神に祝されて、何もかもゆたかにに与えられている。気の毒なのは周辺のアラビア人だ。人々はそう思っていた。

その人々に主イエスが言われたのです。<乾いている人はわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じるものは聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れる>

人々は、自分は乾いてなどいないと考えていた。飢え乾いている人々とは、われわれではない。世の中には親の都合で施設で育てられる人がいる。戦争とも無縁だ。物価は上がっているけれど、食べ物に事欠くわけではない。自殺する人の子とは新聞には出ている、でもそれは、われわれのことではない。平均的日本人は自分は満ち足りていると思っています。自分には取り立てて問題になるようなことはない。

でも本当にそうでしょうか。表面的には恵まれた日常があるかもしれません。ですが自分のうちに満たされない思いを持っている人は少なくないでしょう。健康に自信を持てない人も多くいます。家族や親族の介護や援助で苦労している人もたくさんいます。職場のセクハラで労苦の耐えない若い女性もいます。子供の幼稚園や保育所のことでさまざまに工夫しながら働く若い夫婦もいます。就職しても、上司とうまくやっていくことができない、差別的に扱われる、と感じる人。じつは上司のほうが労苦していたと言う事もあります。日常の人間関係の中で、嫉妬心やねたみ、憎悪の感情が行き来すること、われわれはそうしたことと無縁に過ごしてはいません。さまざまな問題の中で、人の心の貧しさ、心の狭さから起こってくる出来事は少なくないのです。

宗教とか、信仰は人の心を満たして、より寛容で他者との関係を造り上げるものだと思いますが、むしろ逆で、キリスト教のなかでさえ自分達の信仰こそ最高で、違いを認めない、自分達の教義こそ最高で他者はキリスト教信仰にあらずというような原理主義的な受け止め方はますます強まるような印象があります。

主イエスは言われます。<乾いている人はわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じるものは聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れる>
「聖書に書いてあるとおり」というのは、旧約聖書のことです。

出エジプト記17:1-7 (p.122) 荒野の生活は次から次に危機に見舞われました。まずパンがなかった。ついでエジプトの軍隊が追いかけてきた。そして今度は水がなかった。2節をごらんください。本当はモーセに水がないといわれても困るでしょう。モーセは「なぜわたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」といわざるを得なかった。3節、4節を見ると、民衆はモーセを石打の刑で処刑しようとしたのです。なんというエゴでしょう。民衆、つまりそれはわれわれ自身ですが、そういう行動に走るのです。わたしたちに今必要なものを与えないなら、そうした神は不用だ、と叫びます。そして神の言葉を取り告ぐ人を処刑しようとします。

さらに前進しますと、モーセによって、岩から湧き水を出すという出来事が起こります。民数記20:1-11 水は与えられました。神は岩に命じて水を出すように命じた。しかしモーセは岩を杖で打擲して水を出した。彼は我を忘れて感情的になって岩をうった。それはあまりの怒りで神を忘れた。この一件をもって、モーセは約束の地に入ることができなかった。

ひとは毎日1.5L から2L 水を飲めと勧められます。血液をさらさらにするし、おなかのためにも排出をスムーズにします。しかし年をとればとるほど、のどの渇きが感じられなくなるそうです。ですから高齢者ほど夏になると熱中症でたおれるのです。生命にキケンが近づいても、なお渇きを感じないからです。われわれは教会に来ます。それはわれわれが、なんらか心の乾きを覚えているからです。心乾くことはつらいのです。でも乾く心のセンサーが働いていることは、じつは幸いなことです。われわれは一方的に清くされ、神にすくわれて、まったく罪の根の取り去られた、清い存在になったのではありません。われわれこそ、主イエスである命の水が与えられなければならないのです。イスラエルの人々は、彼らは選民だから満たされていると思っていた。彼らは選民である、神のみ旨の真ん中を生きている。律法を学んで、知って、満ち足りていると受け止めていたのです。しかしわれわれこそ正しい信仰者、自分の生き方を誇り、一方的に肯定し、是認していると、本当に聞くべき神の言葉は、聞こえてこないでしょう。それこそが神の言葉を聞くことの飢饉、信仰の危機なのです。数々の危機を脱出して、奇跡的な神の業に守られて荒野に脱出したものの、イスラエルは出エジプトの国家的恩人であるモーセを殺そうとします。

そうして満ち足りている人々に向かって主イエスは「乾いている人はだれでも私のところに来て飲みなさい。」といわれました。いつの間にか、体内が水不足になって、血液の濃度が増して、血管に塊が出来やすく、脳梗塞の一つの原因と聞きました。

われわれこそ主の言葉をやわらかい心で受け止める必要があります。

(2020年05月24日 礼拝メッセージ)

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