イエスに愛されて

ヨハネ福音書 21章 1-14節

ガリラヤ湖へ漁に出たが、一匹も獲れなかった。

教会暦の上では復活説は今日までなのです。来週から聖霊降臨節になっていきます。由木教会では来週の主日礼拝においてタグチタケオさん、ホンマキョウコさん、そして1週間遅れてナカシマヤスヒロさんの3人の方が洗礼を受けられることになっています。私に言わせれば、それぞれの方々に精霊による特別な働きかけがあったことを深く覚えて心から大きな感謝を捧げたいと思っております。

今日は21章の前半の部分をテキストとさせていただいているのです。ここからもいろんな説教が可能だろうと思います。読みながら非常に教えられるところ、考えさせられるところ、様々な思いが溢れ出てくるような気がします。
弟子たちの出来事です。小見出しを見ると「イエス7人の弟子に現れる」。イエスの弟子は7人だけでしたか? 違いますね。本当は12人いた。でもそのうちの一人は自死しているわけですから11人になろうかと思います。事ここに至って、まだ弟子たちの全体像は復活していないということなのです。弟子たちはイエス様が十字架にかかる出来事を目撃したのみならず、関わりを恐れて裏切りにも近い言動で否定してしまった。結果、弟子たちの集団が蜘蛛の子を散らすように散り散りバラバラになって、ユダは自死していなくなってしまった。その後、復活した主イエスに出会ったものの、弟子たちは依然として立ち上がれていない。

ここでは弟子たちはティベリアス湖、つまりガリラヤ湖に戻っているのですけれども、(14節)「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう3度目である」。3回目なんですけれども弟子たちは、(12節 b)「誰も『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」
当たり前ですけど、しかし主であることを疑う状況がそこにあったから、こういう文章が入ってるんだと思うんです。3度目にしてはそっけないですね。本当にそれが主である確信が得られない。

1回目の出会いは主イエスが復活した直後。週の初めの日の夕方、弟子たちは内鍵をしっかり締めたエルサレムの2階座敷に閉じこもっていた。“元弟子”と言いたいくらいですけれども、その部屋に誰も入れないと心に決めていたのでしょうか、鍵を閉めていた。そこに突然、入れるはずのない主イエスが現れた。そして弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」
そうして主イエスは弟子たちを赦した。弟子たちは、わだかまりもあったでしょう。主イエスにこんな顔を向けることができないと思ったかもしれない。できれば会いたくないとくらい思っていたかもしれない。でもその弟子に向かって「父がわたしを遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と主イエスはおっしゃった。それが一回目の現れ方でした。

2回目に現れたのはどういう時かご存知ですか? 行方不明になっていたトマスが集団に復帰した1週間後の出来事です。場所はやはり同じエルサレムの2階座敷です。この時も内鍵をかけていた。弟子たちは依然として周囲の人々を恐れています。主イエスは現実主義者であるトマスに「あなた方の指をわたしの脇腹の傷跡に差し入れてごらん。信じないものではなく信じる者になりなさい」と促した。トマスは主イエスに向かって「私の主よ私の神よ」と、ここで弟子として歩んでいこうとすることを、改めて表明した。

そして3度目に弟子たちに主イエスが現れたのはガリラヤ河畔のこの出来事であります。主イエスが御復活したと知ったら、弟子たちの信仰心は、いやがうえにも高まったと言いたい。主イエスの復活を前にして人は劇的に変われるというメッセージがその辺で表明されるとうれしい。
実際はどうだったのか。人間の精神は一つの段階を終えたらすぐに次の段階に飛び立っていくような簡単なものではないようです。(3節)「シモン・ペテロが『私は漁に行く』と言うと彼らは『私たちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って船に乗り込んだ。」
この時、弟子たちは7人いたんです(シモン・ペテロ、リリモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子達、それに二人の弟子)。なぜ今さら漁に行くのでしょう? 何のためでしょう? ペテロとゼベダイの子達、ヤコブとヨハネは漁師でした。しかしナタナエルはカナ出身です。カナは地図を見ると湖とは全く別のところにあります。つまりナタナエルに漁の経験はなかった。トマスもおそらくそうでしょう。漁師らしくない印象があります。漁師でない人が夜、船に乗っても何の役にも立たないだろうと思います。案の定、彼らが一晩中船に乗っても何も獲れなかった。漁に行ったのですけれども、彼らの頭の中にあったのは、今後自分たちはどういう将来を生きればいいのか、どういう将来を作り上げていったらいいのか、ということだったと思います。
そこにイエス・キリストの復活という思いがけない出来事が起こり、それなら一挙に、人生の舵を右から左に切って、それに合わせた人生を歩み始めればいい。でも一旦弟子として大失敗をした彼らに、迷いと、そんな資格が自分にあるのだろうかという思いが舵を切りかねている。主イエスの弟子としてやっていくことについて裏切りの事実はあまりにも大きかった。それは人間的です。
ただ食うために漁師としてやっていくのか、この自分自身への失望感、虚しさ、そんな思いで迷いの中にいたら魚が獲れるはずがない。

(4節)「すでに夜が明けたころイエスが岸に立っておられた。だが弟子たちはそれがイエスだとは分からなかった。」
イエス様を見ても認識できないのです。主イエスはかつてペテロを召命に導いたルカ福音書5章の出来事を重ねるように行動します。イエス様はパンと魚を準備していらっしゃいます。そして(5節)「子たちよ何か食べるものはないか。」
弟子たちはこの方が主イエスであることがやっとわかった。思い出した。(12節)「イエスは来てパンをとって弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」
この時点で弟子たちにはもう分かっていた。これは単なる食事ではない。最終の晩餐である。主イエスによる弟子への最後の召命だった。最後的に弟子たちとして彼らを召そうとしている。これが最後の機会であったかもしれない。その招きの言葉に対して弟子たちは応えないわけにいかない。そういう状況がそこに巡ってきたということだと思います。

初代教会が生きた1世紀から2世紀に向かう頃、ローマ帝国は深刻な統治危機を迎えていたと言われます。ネロ皇帝以降、皇帝の在位期間が数ヶ月というような混乱状態だった。あの『ローマ人の物語』を書いている塩野七生さんによれば、「もはや坂を転げ落ちるばかり」。統治が危機になると権力はしばしば敵を作りだします。初代教会は恰好の国家の敵と目されたかも知れない。そしてペテロもパウロも殉教者となった。もっとも、1世紀から2世紀の迫害は部分的だったと言いますけれども、キリスト者たちは厳しい迫害を経験させられたということです。
ところが教会はそれを耐え抜いていった。ローマ皇帝が洗礼を受けるという決断にまで進んでいくのです。迫害は教会を弱めなかった。逆に迫害を宣教の武器にして、伝道者は一つの街で迫害されれば次の街に逃げ、そこに教会が生まれていった。迫害にあいながら、途方に暮れながら、時に背教に直面しながら教会は100年200年と歴史を積み上げていった。忍耐力で凌げたのではない。

しかしなぜこのような弟子の物語をヨハネ福音書は21章に付け加えたんでしょう? 主イエスに出会いつつもイエスを見失ってしまう。それは人の常かもしれない。目の前に主イエスが現れても、その方を主イエスと分からないなんて、なんと感覚の鈍い、物忘れの激しい弟子たちなんだろうかと思います。けれども主イエスは弟子たちを責める風でなく、かつて最初の弟子たちをお召しになった出来事を再現するかのように、再び弟子たちに信仰と使命を更新していった。

それが私たちなのだ。我々が弟子たちを責めることはできません。私たちはこのよみがえられた主が傍にいてくださることを、時に忘れかける場合もあるのかもしれない。しかし問題が発生した時こそ主イエスの眼差しは私たちに注がれています。噛んで含めるように主の思いは信じる者に注がれている。20章で一旦終わったかのようなヨハネ福音書が、あとがきの部分にこれはもう一度記しておかねばいけないと考えたのです。
たとえどれほど不完全であっても、失敗に満ちていようとも、人目に立たなくても私たちは弟子として立たしていただこう、立ちたい。失敗の過去があっても再出発したいという志があるならば、主イエスは私たちの傍にいて、私たちの信仰を深めてくださる。
弟子たちは1度、2度、3度と復活の主にお目にかかる度に、そこに信仰を深めていった。そういうことではないでしょうか。その志あるならば、すぐ向こうに聖霊がそそがれるペンテコステがあります。
人が変えられる。あのペテロが、弟子たちに尊敬されるリーダーとしてたて挙げられていく。そうした信仰の物語が描かれていくのだと思います。

お祈り

神様、あなたの前に導かれる弟子たちの歩みが、容易ならざることだったことを私たちは理解します。弟子として歩んでいくということが、時に困難に満ちたものであることでもあることをわかります。しかしあなたはその度に弟子たちの傍らに立ち帰って来てくださり、励ましてくださり、食事を準備して、そして弟子たちを励ましてくださいます。どうぞあなたの前に確かな歩みを私たちが進めるものでありますように。信仰を歩んでいくということが時に困難になる場合にもあなたの励ましの中で弟子たちが歩んでゆく、そのような道が備えられていることをあらためて覚えることです。
あなたは失敗した弟子たちを責めるのでなく、そうした弟子たちを受け止めてくださる御方であることをありがとうございます。どんなときにも主イエスの眼差しが、じっと私たちの内に注がれていることを覚えながら、あなたの前に進んでいくことができますように助けを与えてください。弟子たち以上に感覚の鈍い、物忘れの激しい弟子たちなのかもしれません。しかしあなたの前に歩み続ける者でありますように助けを与えてください。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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