神の民よ喜べ

ゼカリヤ書 2:5-17

今日は待降節第3主日。ローソクが3本点灯しています。来週の主日が一応クリスマス礼拝となります。一応というのは来週主日は正式には<待降節第4主日ですから>ろうそくを4本立ててアドヴェント第4主日の礼拝を行い、24日夜にキリスト降誕礼拝を行い、そして25日に降誕礼拝を行うのがカトリック教会などで行われる正式なクリスマスの祝い方なのですが、日本では私たちの様な礼拝の組み立てが普通となっています。

さて今日はゼカリヤ書からの説教です。この預言者はさほど知られた人物ではないと思います。めったにゼカリヤ書が説教のテキストとして用いられることはないでしょう。けれどゼカリヤの言葉は福音書やヨハネ黙示録に71箇所以上引用されており、新約聖書の著者たちに強い影響を与えたといわれます。

ゼカリヤが活躍した時代は紀元前520年頃です。すでにバビロニヤが崩壊していました! 時代はペルシャが覇権を誇っていました。イスラエルの民は半世紀を越えるバビロニヤ捕囚から解放されて祖国に戻って20年も経っていない頃です。大国が覇権を打ち立てては滅び、影も形も消えます。そして常に軍事的敗北を重ねたヘブライ人だけが生き残っていったのです。エルサレムではヘブライの象徴とも言える神殿の再建が始まり、新しい時代、新しい民族のアイデンティティが形作られようとしていました。人々はまず生活の再建、家の建設、家具、調度品をと急いでいたときに、ゼカリヤはこの世的なもの、物質的なもの、目に見えるものより、今こそ霊的な精神の回復のときであるとして、人々に訴えたのでした。

本日の冒頭の言葉2章1節から、ゼカリヤが見た幻という形で 一つの情景が描かれます。一人の人がエルサレムの城壁を再建するために計り縄-つまり測量の道具です-を持って、測量をしている場面です。オリエントでも、ヨーロッパでも、古代、中世の町々のほとんどは城壁をめぐらせていました。エルサレムの城壁はバビロン軍に徹底的に破壊され、そのままになっていました。そのままでは<何時><どの国>が襲ってきても持ちこたえることは出来なかった。まずは城壁を再建することが何よりも急がれていた。そのための測量がなされていたのです。そうした状況の中で、天の使い(の様です)が現れて、そうして行う測量には間違いがあるというのです(5-8節)。

幻の中で預言者は測量士に、あなたはどこへ行って、何をするのかと聞きます。

測量士は「エルサレムを測り、その幅と長さを調べるためです。」(6節)と答えます。つまり廃墟になったエルサレムを忠実に再建しようと志すのです。過去の栄光を何とか取り戻したいと願っているのです。けれど御使いが言うには「エルサレムは人と家畜にあふれ、城壁のない開かれたところになる。」(8節)と言うのです。測量士の頭にあるのは過去エルサレムの再建です。かつての栄光を取り戻すことです。しかし神が目論む新しいエルサレムは過去の再建にはとどまらない。その程度のものではない。以前とは比べ物にならないほど、人も家畜もずっと多くなる。以前と同じ規模のものを再建しても意味がない、役に立たない、と言います。測量士は確かに過去に倣おうとする気持ちを持っている。

この測量士なる人物は確かに現実的です。過去の栄光のノスタルジーに囚われすぎている。しかし決定的に欠けているのは将来への見通しがないということです。神がイスラエルに抱いている未来図、ヴィジョンに従って城壁を考えることがないのです。ただ測り縄を持って過去と同じ城壁を作ろうとしているのです。さらに天の使いは9節で次のように語ります。「わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって、栄光となる。」 かつて堅固な石で築かれていたエルサレム城壁はバビロン軍の手によって破壊されてしまいました。にもかかわらず同じような石を使った城壁を築くのは賢いやり方ではない。城壁破壊のための軍事技術は日進月歩だったでしょう。再び50年前の城壁を築いて何になるのかということです。

神の民であるイスラエルが、そのエルサレムにとって、自分たちを守るということは、どういうことなのかということです。主が自ら<火の城壁>となると言われました。神の民は、神の民として存在することこそ、主によって守っていただくということです。石の壁ではなく、主への厚い信頼によってこそ、民は守られるのです。それは信仰という壁です。そのことに民が気づくように幻が示され、促されています。こうした歴史を生きてきたイスラエルが存続しているのは、彼らが軍事技術に長けていて、軍事大国であったということではなかった。バビロニヤも、ペルシャも、ローマも、すべて滅びて、イスラエルだけが残ったのです。国家の生き残りの条件は、けっして軍事大国化することでないことは明らかです。

ゼカリヤの預言は「やがてエルサレムは以前よりもはるかに多くの人々が集うようになる。50年前の城壁を作り直しても、はるかに多くの人々が集い、間に合わなくなる」というものです。その理由は

  1. バビロンにはなお残っているイスラエル人があり、帰ってくるように呼びかけがされます。(10-11節)
  2. その日、多くの国々は主に帰依して、私の民となり、私はあなたのただ中に住まう。(15節)

神の都に住む人はイスラエルの民ばかりではありません。諸国民がやがて神のもとに集められるというのです。<わたし-つまり神-自身が町を囲む火の城壁となる>。それは言い換えるとエルサレムは<城壁のない、開かれたところとなる>ということです。クリスマスに野にいた羊飼いに語られた天使の御告げは<恐れるな。私は民全体に与えられる大きな喜びを告げる(ルカ2:10)>でした。先週のテトスの手紙の中には聖句<すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた>(テトス2:11)と言われました。

神の恵みは<すべての人々>に及びます。何の例外も無いのです。そこになんらの条件や、制約や限界も無いのです。人は驚くほど線引きが好きです。主イエスに敵対したファリサイの人々は、自らファリサイ-分離-された者、聖別された者と呼ばせました。キリスト教会ですらカトリックとプロテスタントの間には線引きがなされていました。ゼカリヤの幻は、新しい神の民は、城壁のない開かれたところとなって、この私を迎えてくれるのです。神はあなたのためにその門を開いてくださったのです。イエス・キリストは、そのことを知らせるためにこの世界に来てくださった。私もあなたも、この神に招かれているのです。

そこには一人の例外もないのです。その人が望むなら、神の救いは城壁のない開かれたところとして、すべての人に開かれているのです。(イザヤ書65章1節)

「わたしを尋ねようとしないものにも わたしは尋ね出されるものとなり わたしを求めようとしない者にも 見出されるものとなった。わたしの名を呼ばない民にも わたしはここにいる、ここにいると言った。」

主自身が<火の城壁>となられると言います。火の城壁とは一つのたとえです。私たちにはさまざまな力が押し寄せます。罪や誘惑はもちろんです。今年も権力の座にある人々の不祥事が絶えません。あの人々が最初から不正なお金を受け取ることを目論んで政治家になったとは思えません。最初は国のため、日本のためと考えて行動していたと思います。けれどいつか誘惑にさらされ、それに負けていく。やむをえないというつもりはありませんが、自分だけはそうした弱さとは無縁だとする心がいつしか取り込まれていったのです。人の心には働きかけるサタニックな力があります。弱い心があります。どんなに強力な武器で国を防衛しても、守りきれない弱い心があれば、たちまち城壁は打ち崩されるのです。

神の民にとっての最大の武器は神の守りです。神は信頼に生きようとする人を、御自分の瞳のように守ってくださるのです。「敵がこれに触るのを許さない。」(12,13節)のです。 現代は不安に満ちた、苦悩に満ちた時代です。困難が無い、不安が無いというのは真実ではないと思います。真実に自分の心を見つめていくと、恐れや絶望や、あきらめさえ広がっている現実が見えても来ます。

「娘、シオンよ、声をあげて喜べ。わたしは来て あなた方のただ中に住まう、 と主は言われる。」(ゼカリヤ2:14)
「すべて肉なるものよ、主の御前に黙せ。主はその聖なる住まいから立ち上がられる。」(同2:17)

神は永遠の高みに座して、睥睨して人を見下しているのではないのです。神が迫られるように立ち上がり、その民のなかに下ってくださり、そこに住んで下さる。御子イエスがこの世に送られたのです。そこに示された神の愛はただ一度限りのものではありませんでした。ベツレヘムのまぶねでお生まれになったイエス・キリストに表された愛は、永遠のものです。神の関心は、いつも、永遠に私たちに向けられているのです。

人の心は罪や、弱さや死の力にもてあそばれているようなものです。神様は人を救わずにはおれない燃えるような愛を私たちの内に注がれるのです。人が変えられうるとすれば、この愛しかないのです。神はしっかりとあなたを抱きとめるのです。そうしてこの愛に触れて、人の心の闇に、小さくとも光が点じられるのです。人の心は光と勝利に向うのです。サタニックな力はピリオドを打つのです。

(2021年12月12日 礼拝メッセージ)

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