神はあなたを選ばれた

ヨハネ15:18-27

ヨハネ福音書では繰り返し「互いに愛し合う」ことが繰り返されます。ところが今朝のテキストでは18-19「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」とはじまります。

「世があなた方を憎むなら」と主イエスがいう世とは弟子たちを憎む前にイエスを憎み、殺そうとした人々、つまり当時のユダヤの権力者たち、支配者たちです。つまりユダヤの宗教を代表する大祭司、ファリサイ派、サドカイ派長老という民の指導者たちを指すのは当然です。

15章ではイエスさまがブドウの木であなた方は枝なのだ。枝は幹につながっていなければならない。イエスと結ばれているものはイエスの喜びが流れ込み喜びが満たされると、イエスの弟子であることが明らかになり、主イエスの弟子であることが大いなる実りとなって、豊かにされると語られているのです。ところが今日のテキストを読むとイエスの弟子であることのむつかしさというか困難な面が描かれるのです。先ほど読みました通りここで繰り返されている言葉は<世は、憎む>という言葉が繰り返し8回出てきます。

人はイエスに帰属することで信徒にとっては 理由もない憎悪や迫害のターゲットになるマイナスな面、暗い闇の経験もあるとはっきり主イエスは語られているのです。主イエスが十字架上で殺されたことは闇の中でも最も暗い闇でした。弟子たちも主イエスに帰属しようとすれば、それ以上の闇の経験もありうる。弟子は主イエスと喜びを共にすべきだ、それならやはり主イエスと共に、同じ経験をすべきなのだと弟子たちに事前に語られたのでした。
1930年代にヨーロッパにいたユダヤ人がナチス政権によって600万人ともいわれるユダヤ人が犠牲になりました。ユダヤ系であるという理由で途方もない数の人々が殺されたり、迫害を受けました。また日本ではホーリネス系の教会が宗教弾圧を受け、1942年6月26日に教会は閉鎖され、124名が逮捕され、6名が獄中で命を奪われ、釈放後に一人がなくなっています。これに先立って1941年3月23日に函館教会の牧師補小山宗助さんが26歳で獄死しています。警察の屋上から飛び降り、自死したと警察から発表されています。厳重に拘束されている人が屋上から飛び降りられるわけがありません。突き落とされたと推測されています。

19節です。あなた方が世に属していたなら、夜はあなた方を身内として愛したはずだ。弟子たちがもう一度律法の世界に逆戻りするなら、世は弟子たちを自分の身内として愛した。だからこそ主イエスははっきりと言われた「だがあなた方は世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。だから、世はあなた方を憎むである」
なぜ弟子たちが世から憎まれるのか? その最大の理由は「イエスが彼らをこの世から選び出してしまったから」と言われています。

主イエスに選ばれて、イエスの愛と喜びの世界にとどまるのか? それとも、再び世の闇の世界にとどまるのか。この決断は1回限りの決断ではなく瞬間瞬間に主体的に選び続ける問題です。15章26節から16章に聖霊について語られます。実は聖霊はギリシャ語で parakletos と言います。Para は傍・傍らにの意味です。Kletos は呼ぶという動詞の活用形です。傍に呼ぶとは聖霊は寄り添う神であると言い直すことができます。弟子たちが主イエスにつながり続けることは確かに困難があります。けれどだからこそ聖霊がともに歩んでくださるのです。確かに迫害が強ま行く時代でしたが、教会は生き抜くことができた。

「僕は主人に勝りはしない」と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。(20-22)

主イエスは13:16の言葉をもう一度、ここでくりかえします。

そして主イエスは明確に「人々がわたしを迫害したのであれば、あなた方をも迫害するだろう」と面と向かって言われました。そして「僕は主人に勝りはしない」と言いつつ同時に「彼らが主イエスの言葉を守ったのであれば、あなた方の言葉も守るだろう」と言っておられます。ヨハネは「憎しみ」という言葉を1段ギアアップしてはっきり「迫害」という言葉にシフトをあげています。ヨハネの教会に向けられている状況は抽象的な<憎しみ>ではなく、<迫害>でした。

21「しかし人々は私の名のゆえに、これらのことをみなあなたがたにするようになる。わたしをおつかわしになった方を知らないからである、」

この時代のユダヤ教のリーダーたちは自分では父なる神を知っていると思いこんでいましたが、かれらの神を知る知識、信仰はただ表面的な口先だけのものでしかなかったのです。彼らにとって最も大切なものは神殿という巨大な利益を生む利権の構造であり、大祭司職という地位であり、そこにある権力でした。真の宗教者であれば命がけで人々の救いを実現し、存在をかけて祈りと信仰に生きる主イエスを十字架にかけるなどと言う残虐な行為ができるわけがないのです。

私たち夫婦は3月の震災記念日周辺に福島第一原発に近い楢葉町に宝鏡寺というお寺を仏教、天理教、カトリック、プロテスタント等の宗教者のみなさんとともに原発周辺をめぐりそして宝鏡寺という600年の歴史を誇る山寺をお訪ねしています(今年は舞い込んだコロナ騒ぎで訪問は取りやめになった)。 そこには早川さんという大層立派なご住職がいます。このかたはもともと高校の国語の教師をなさっていた方で福島原発は危険だと予告し反対運動もしていた方ですがこの方の予告した通りの原発事故を起こしたのです。お寺は130軒ほどの檀家を抱えるお寺でしたが今は大半の檀家がばらならに分散してしまい、おそらくご住職の生活もとても大変ではなかろうかと思います。たぶん普通でしたらさっさと別の寺に移るとこでしょうが、早川ご住職はガンと動かず東京電力を訴えて宝鏡寺での祈りと反原発運動に心を込めておられます。反原発運動もですが、残ったわずかな人々のための働きかけのためいのちを燃やす早川住職と出会えたことをわたしは感謝しています。そこに真の宗教者としても矜持、あり方に感動します。

(2020年05月10日 礼拝メッセージ)

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