喜び合い、赦しあう共同体

使徒言行録 2:1-11,37-47

ペンテコステに聖霊が降(くだ)りました。ペトロを中心とする弟子達は、ペンテコステー聖霊降臨までの10日間(召天日5/13~5/23)、身の置き所もない敗北感に打ちのめされていたはずです。弟子たちはたった3年間ではあったけれど、主イエスを人生の師として、がっちりした関係を築いたと思っていました。その3年間は何十年にも匹敵する深い意味を持つものでした。

ところがその信頼関係を裏切り、イエスという人など知らぬ存ぜぬと否定し、主イエスは十字架刑に処せられました。弟子たちはエルサレムの二階座敷に息をひそめ物音一つ立てずに人々を恐れていた。けれど、その弟子達に、聖霊が降(くだ)ったのです。それは一挙に聖霊が降ったというより、ことによると、徐々にその変化は起こっていた。その弟子たちの数は意外に多かった。120人と使徒1:15にあります。すでにペトロはその人々に向かってユダにかわって、ひとり欠員となっている使徒を補充するべきだと説教をしています。これらの一連のことはまだ聖霊が降っていないときの出来事です。

彼らは熱心に祈り始めていました。祈りをするといっても、単に何かを願うというより、ここでなんらかの神の業が行われることへの予感・待ち望む思いがあったのではないでしょうか。神さまが何か特別のことをなしてくださる。弟子達には何らかの期待感があった。彼らの手のうちには何もなかったからです。打つ手なし。空手だった。

そしてペンテコステの日に、彼らの予想を越える不思議な力が天から与えられたのです。弟子の中心人物であるペトロが説教をしました。これは事前に準備して、練られた説教ではなかったでしょう。ペトロは聖霊に迫られて人々に話しかけたのです。(1:15)

・・・・2:36。イエスがなぜ十字架にかかられねばならなかったのか。そしてその死に、エルサレムの人々も一定の責任があることを語りかけたのです。「人々はこれを聴いて大いに心打たれ。」「兄弟たち私たちはどうしたらよいのですか」(37) と問うたのです。口語訳―心刺された。 岩波訳―深く心えぐられと訳されています。心、刺されたように心動かされたのです。

もちろん、だれよりも心さされていたのは、ほかならぬペトロです。

神は良くも悪くも、自分を忘れない方であることを、ペトロは知った。

自分自身に神が迫ってこられることを深く知ったペトロは、神が、はかりしれない愛と許しをもってペトロ自身に近づかれる神である、人々に臨まれるれる方であることを伝えたのです。

<兄弟たち、私たちはどうしたらよいのですか。>
ペトロは悔い改めて洗礼を受けることを勧めました。悔い改めとは単に<申し訳なかった。>ということではなかった。人々はそれまでの人生の歩みや考え方が根本的に間違っていたと気づいた。仕事をして、出世して、いったん事があればローマ人ならローマのため、ユダヤ人ならユダヤのため、祖国のために剣を取って、戦いに出かける。自分が正義であると確信することに生きていく。けれど、「こうするしかない」「正義であると確信して歩んできた生き方」「その道」「歩み」そのものが間違っていたことに気がついたのです。

見当はずれの、的外れの生き方であったことに気づかされて、人々は人生の方向転換を図る。-悔い改めとはそういうことでした。

それまでも、自分の人生は悪いものと思っていたわけではない。でもこれこそわが人生と思えていたわけでもない。心の底には、過去に縛られわだかまるものが渦巻いている。子供はいるものの、親と子が心つながれ、価値観を共有するわけでもない。何かあると、自分をコントロールできないほど感情を高ぶらせてしまう。そのたびに誰かを悪者にして、真実から目をそらして生きてきた。そういう自分と向き合ってくれる友人と呼べる人は、とても少ない。

しかし今、主イエスがすべての罪を廃棄してくださり、過去に縛られていた自分を解放して下さる。そう信じて神の世界に飛び込もう。ここから自分は変わることができる。そう決断すること。新たな自分に生まれ変わることができる。そう心を決めたのです。

ペンテコステは聖霊の御業です。ペトロがなぜこんなに劇的に変わったのだろう。変わったのはペトロひとりではなく、弟子たち全体が劇的に変わったのです。ですからこれは神による聖霊の業だったのです。

弟子たちは、弟子たちの中で誰が一番優れた指導者かで争ったことはありました。しかし主を裏切って、「イエスなどと言う人は知らない。」 と人前で公言するなどと思ったことは全くなかったでしょう。
【いざ自分自身の安全が怪しくなれば平気で嘘をつき、その存在すらなかったことにする。少なくもそういう世界には二度と戻るまい。】

弟子たちにとって今更漁師にも戻れないし、主イエス抜きの世界に行くことはできなかった。主イエスによって教えられた福音によって生きる道を選ぶ以外に彼らの道はなかった。

人々は新しい生活がスタートしました。<使徒の教え><相互の交わり><パンを裂く事><祈ること>

するとそれはさらに発展していきました。「財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、みながそれを分け合った。」(44,45)
心が一つになるときに、信仰の一致が生まれると、具体的な出来事につながっていくのです。使徒言行録はルカによって書かれました。ルカ福音書の後半と取ることもできます。ルカ福音書においては富の問題がしばしば取り上げられます。過大に富を求める。富がいかに人間を狂わせ、神から離れさせるかを語ります。

ルカ福音書によれば、主イエスの伝道の第一声は「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために主が私に油を注がれた。」(ルカ4:18)
山上の説教のルカ版。ルカ6:24,25「富んでいるあなたがたは不幸である。」「今満腹している人々、あなたがたは不幸である。」
愚かな金持ちのたとえ12:13以下、金持ちとラザロのたとえ(16:19以下)

使徒言行録の中で4:32以下に、「人々はすべてを共有していたので、信者の中には貧しい人がいなかった。」
しかしたくさんの土地を保有していたアナニヤとサフィラは、不正の申告をして人々の注目を浴びようとして失敗して死んでしまうのです。そこまで厳しく言う必要はないのにと思えるほどです。

ルカは主イエスの言葉による富むものへの裁きを真実に受け止めて、貧しいものの解放を福音を生きる生き方の大切な用件と受け止めたのです。

悔い改めと言うことが神の前で、物事を判断するときの立場や視点(見方)を移すことだとする。一つの共同体の中で、ある人々には有り余る財産があり、他方ある人々には明日の糧にも事欠くと。「貧富の差はいつの時代にもあること」と受け止めて済まさず、もてるものが財産を処分してそれを全体の必要のために供した。それはもてるものも、持たざるものも、同じところに立って、共に行き始めた証でした。

正確な言い方ではありませんが…世界は2拾数人の金持ちが世界の半分の富を独占している。といわれます。時代は経済のグローバリズムです。毎日2万4千人もの人々が貧困と栄養不良で亡くなっていきます。

最初にこうして生まれた教会。信徒たちの生活や経済状況について、一切を関心持たずキリストだけを伝えようと、ただ宣教のみに関心を向ければいいという教会なら、こうした使徒言行録の記述にはならなかったでしょう。でも主イエスも、著者のルカも、そうではなかった。繰り返し繰り返しそうした関心を持っていた。教会も時代によって、地域によって、まったく違うけれど、我々なりのやり方で心ひとつとされて、一緒に食事する道を求めて生きたい。

(2021年05月23日 礼拝メッセージ)

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