キリストの御手がのべられて

使徒言行録 16章 16-34節

パウロとシラスが牢屋で神を讃美していた。

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現代では、教会は世界中にあります。でもその初めは一つしかありませんでした。エルサレムの教会です。何事もそうでしょうけども、はじまるときは小さな、ささやかなものからスタートするということだろうと思います。しかも12人の弟子達が教会を形成していったのであります。
ですけども、どうにかスタートした教会に強力な邪魔者が現れたのです。それは、キリスト教は邪教である、間違った宗教である、これをぶち壊すのが私の使命だと考えるパウロです。今でもシリアの首都として存在するダマスカスという町があります。ダマスカスは大都市ですから、もちろんそこにもクリスチャンの逃亡者たちが集まっていった。それを根絶やしにしようとして、彼もダマスカスに迫害に出かけたのです。今で言えば、お隣の韓国に出かけて行って教会を迫害するようなものだと思います。

ところがこのダマスカスに到着しようとしていた時に、神様が馬上のパウロに出会ったというのです。教会を壊すことを使命としていたが、キリスト者となったパウロは、自分こそが世界中に出て行って、このキリストを伝えることが使命だと確信したのであります。あまりにも変わり方が劇的だったものですから、教会で受け入れることがとても大変だった様子は使徒言行録の中でも書いてあります。
パウロは初めてヨーロッパにキリスト教を伝えたのです。今ではヨーロッパこそキリスト教の中心と考えられているのでしょうけども、当時は違った。まずキリスト教を伝えて、人間一人一人の存在がどれほど尊いのか、あなたや私という存在の尊さを深く知らせることでもあったと思います。
この時はギリシャのフィリピという街に出かけて行ったんです。ここ、パウロが初めてヨーロッパに足を踏み入れた街だった。そこでお金やまじないで若い女性を支配して金儲けをしている悪人どもがたくさんいたわけです。パウロとシラスは気の毒な女性たちを解放してあげた。すると、そうした金儲けをしていた者たちが、収入を絶たれて腹を立てた。彼らは賄賂を使ってローマの役人たちを丸め込んでいましたから、出鱈目を言ってパウロ達を訴えた。ローマの役人たちは、碌々、取り調べもしないでパウロと弟子のシラスを鞭で打って、上着を脱がせて辱めをかけて、一番奥の入り口から遠い、光もささない暗闇の獄舎に打ち込んだ。全然悪いことをしていないのに、お前は悪いと決めつけられて罰を受けた。
パウロとシラスは正しいことをしたのに牢屋にぶち込まれたというのが、ここでの舞台設定です。

パウロたちは何のためにヨーロッパに来たんですか?
イエス・キリストを伝えるためでした。そも、パウロの伝導はローマ帝国全体に張り巡らされた街道沿いに教会を建てていくためでした。ローマに向かって道路網が敷き詰められていましたから、それに沿って伝導していこうと戦略を立てたわけです。
少しでも早く世界中に教会を建てようと思った。ですから人が集まるところに行って説教しなければいけません。でも今いるところは牢屋なのです。しかも、まったく体を動かせない道具(足かせ)を付けられていたのです。背中には鞭打たれたことによる数えられないほどのひどい傷が、その晩はあったでしょう。
ところが「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)と書いてあります。パウロ達は、なんて惨めな思いをしただろうかと思います。これは神の計画で、神の助けが多いにあって当然なのに、自分たちは足かせをはめられて、背中には鞭の傷があって、それが疼くわけです。最初はひどく落ち込んだと思います。
で、考えた。思い返してみれば神の御手の及ばない所は世界には無いはずです。神様は世界をその業で満たす方です。ですから「これも神の計画の一部にある」と考えた。神学的な思考ができたんだと思います。
2人は賛美の歌をうたって神に祈りだした。これも不思議なんです。日本語の辞書を見ると「賛美」っていうのは「褒め称えること」って書いてあります。「これ以上良いことはないと褒めちぎること」などと書いてあります。神様はそんな絶好の素晴らしいことをしてくださったんだろうかと思わないことがない。でも、もうすでにこれは一つの神の業だった。

刑務所ものの小説とか、著述とか記述とか色々あると思いますけれども、刑務所では長く留置されている人ほど偉い。権力を持つ。
今日はホーリネス教団の80周年の受難の記念日なんです。200名以上の牧師たちが留置された。留置所では、例えば汚物の処理などは新入りがやるんです。新入りほど、汚いこととか、したくないことをみんな押し付けられるのです。
ところが、2人が賛美の歌を歌って神に祈り出したということは、そこに留置されている人々はパウロとシラスのやることをじーっと見ていた。じーっと見ていたどころか、パウロとシラスの賛美に聞き入っていた。彼らは讃美歌や祈りを喜ぶ人ではなかったはずです。殺人や強盗をはたらく人たちが何人もいただろう。坂道を転がるようにして悪事にのめり込んでいく人々でもあった。ところがその人々が生まれて初めて神の言葉に触れて、あわせて、御言葉と祈りに触れて、一心にこれに気持ちを集中させている。この人たちの心がパウロとシラスの祈り、讃美、神の言葉で変わり始めていた。

そして、そこから次に何が起こったかというと、大地震が起こった。牢の土台が大きく揺すぶられ、牢の戸が開いた。すべての囚人の鎖も外れた。そうなると囚人たちの次の行動は脱獄しかありません。たとえ捕まっても「危険を避けるためだったから逃亡せざるを得なかったんだ」と言えば立派な言い訳になりますし、逃げ出して当然だという気持ちもあったんだろうと思います。ところが誰も逃げ出さなかった。不思議なもんです。
つまり、囚人たちの心がすっかり変わっていた。そしてなぜ脱獄しなかったかといえば、パウロの指示がそこにあったからだと思います。彼らは脱獄者や犯罪者としての残りの生涯を生きるのではなくて、「まっとうな歩みをしてパウロたちと一緒に神の言葉に従って生きようとした」ということなんだと思います。ですから、大きな心の変化であったに違いない。
そして囚人たちが逃げなかったことに驚いたのは看守です。たとえ大地震だとしても、囚人たちを逃亡させてしまったら、一応この牢番である看守の責任が問われることだと思います。そうすれば彼は厳しい処罰を受けなければいけない。場合によっては死刑に処せられるかもしれない。しかし、一切そういうことはなかった。
このことが一つの動機となって、人々は皆変わりました。

看守は、明かりを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐにバプテスマを受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

29~34節

看守も、あの悪人どもの心を一挙に変えさせたパウロとシラスは一体誰なのかということに感激を覚えていた。そして、すすめに応じて「主イエスを信じなさい。そうすればあなたの家族も救われます」の言葉を信じた。
パウロたちは当初、伝導する公会堂、あるいは広場に行きたかった。でもそういうチャンスはまったく与えられなかった。しかしこの地震騒ぎで、すべての囚人が脱獄可能になったにも関わらず、看守は囚人たちが脱獄せずに平静を保っていたことに驚いた。ありえないことがここに起こった。
パウロ達は伝導する場所としては、最もふさわしくない場所だと思ったかもしれない。しかし、そここそ神が働く現場かもしれないということを私たちは覚えなければいけないんじゃないでしょうか。起こってくることは私たちの望む状況とは正反対の牢獄であるかもしれない。しかし、そここそ、一番福音を必要としている人がたくさんいた。そここそ神が導いた場所だった。フィリピの教会は、そうして第一歩を踏み出したのです。
私たちも、
「神を信じる」
「神を愛する」
大切だと思います。起こってくることに讃美の心、思いを込めて歩んでいくことは、とても必要なことなんだと思います。

お祈り

神様、私たちの世の中には本当に赦しがたい、私たちの思いに逆らうような、そうした出来事も数多くあります。しかしそうした中で、事柄が、私たちの目に見える範囲のことだけとは限らないことを改めて覚えることです。あなたの業がそこで展開していくということを私たちは見つめていかなければならない。本当にあなたの業だけがこの世の中を変革する、そうしたことが大いにあることを、改めてこのヨーロッパ宣教第1歩を踏み記したパウロたちの出来事でした。どうぞあなたが私たちの日々の歩みの中にも望んでくださることを心からお願いをいたします。どうぞあなたの前に私たちも大いなる希望を持って歩んで行くことができますように。
繰り返しになりますけれども、どうぞ病んでいる人々、心痛む人々、私たちはあなたに祈ります。あなたの御業がそこで認められていくことができるように、どうぞあなたが望んでくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

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