神の前を生きる

創世記 4:1-10

創世記4章は楽園から追い出されたアダムとエヴァの新生活が描かれます。「アダムは妻エヴァを知った」という言葉から始まります。二人はここから夫婦の営みを始めるのです。そしてエヴァは身ごもりカインを生み、弟アベルを生みます。一組の夫婦が成立して、愛しい子供が与えられる。当たり前と言えば当たり前のことですが、親となった若者にとって、こんなに嬉しいことはなかった。私たちはそうした道のりを生きてきました。

二人の兄弟の幼少期は何も書かれてはいません。でもアダムとエヴァは変わらぬ愛情をもって二人を育てました。カインが生まれた時も、アベルを与えられた時もエヴァは「私は主によって男子を得た」
愛しい子供が男であろうと、女であろうと、そうして家庭が造られてゆくことに、アダムのエヴァも言い尽くせないよろこびを感じていたのだと思います。そしてカインは土を耕す者になり、アベルは羊飼いとなります。

楽園を追い出されはしましたが、アダムとエヴァは神の声を聴きながら、それぞれに自分自身の祭壇をもって神に犠牲を捧げていたのです。当然のようにカインとアベルも神に供物を捧げることをしていた。ところがある日、不思議なことが起こります。神はアベルの捧げた肥えた羊の初子を喜び、カインが捧げた土の実りには目を留めなかった(3-5節)。なぜ神がそうしたのか何の説明も、弁明も説明されません。ですからどうしても、なぜ?という問いが心に浮かびます。 

古代においても牧羊者より、耕作をする農夫のほうがはるかに安定した生活をすることが出来ました。牧羊者は牧草地を求めて季節の変化に合わせて移動しなければなりませんし、常に野獣から子羊やヤギを守らねばなりません。彼らは冬の寒さや夏の暑さにも耐えて、野宿を重ね、羊、ヤギ、牛を育てたのです。移動の途中では農夫が育てた麦や小麦、野菜を、群れの羊やヤギが食べてしまわないように、注意も必要です。また、伝染病が流行ると、群れを何百頭、何千頭と失うのです。

創世記の記述の流れからすると、アダムとエヴァに継いで登場するのはカインとアベルです。カインは先に生まれたものとして、有利な農業生活を選びました。後から生まれたアベルは仕方なく牧羊者の生活を選ばねばならなかった。この時、世界にはアダムとエヴァ、そしてカインとアベルの4人しかいなかった。だから農業に適した土地など無限大にあっただろうと思えます。

ところが14節を見ると「今日あなたが私をこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠され、地上を彷徨い流離う者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、わたしを殺すでしょう。」
もしも創世記の物語の筋からいけば放浪するカインを見つける人はアダムとエヴァしかいません。でもすでにアベルを失ったカインの両親(アダムとエヴァ)が、一人となった息子を殺すことはありえません。物語はもともと人類最初の家族の物語ではないのです。まさに現実の世界を背景にしています。創世記の物語は、こうした背景が展開する世界をすでに前提にしているのです。この世界はすでに人間が溢れており、カインは現実世界の農民層を代表するものとして語られています。農耕地帯にあとから移動してきた人々は農民になることが出来ません。彼らは農耕地帯の出入りを許してもらって、ようやく牧羊者になることが出来ます。不安定な職業です。でも生きるためにはやむをえないのです。アベルはこうした苦労の多い牧羊者を代表します。

兄と弟という関係は、圧倒的な力関係があります。神の目は常に圧倒的な弱者に注がれます。クリスマスにおいて救い主は飼い葉おけの嬰児としてこの世にお出でになりました。そしてこの方は十字架のくぎ付けられることによって神の贖いを実現します。パウロは自分が「弱い時こそ強い」と語ります(コリント2 12:7-10)。主イエスは山上の説教で人は「貧しいもの・柔和なもの・飢え乾いている人・ 迫害されている人を通して神の祝福は伝えられてゆく」と語られました。

人は、明らかに示された神の決定には従うべきです。けれどカインの心はこの神の決定に炎のように燃え上がります。つまり愛の炎ではなく、怒り・憤りの炎です。<カインは激しく怒って顔を伏せた>(4:5) カインは目をそらしたのです。彼は神を仰ぐことをやめたのです。

神がカインの供え物を受け、アベルの供え物を見過ごしたとすれば、カインは「神でさえも自分の意に沿うてくれるのだ」と受け止めたかもしれない。カインの供え物が退けられたことは決して間違いではない。彼が誕生した時、母親エヴァは<主によってカインを得た>と言ったのです。主はカインを見捨てることも、退けることもしないのです。怒りによって理性を失いかけているカインに神は近づきます。「あなたには、罪が戸口で待ち伏せてお前を求めている」と警告します。しかし人類最初の兄は、人類最初の弟を殺します(8節)。有島武郎は我々を<カインの末裔>と呼びます。

この人類最初の家庭の殺人事件は、神への捧げもの=礼拝の場で、説教をきく道すがらの出来事でした。言葉としては神を告白しながら、兄弟との関係においては殺人をしかねないほどの憎しみを抱えている。それは矛盾であり、不信仰です。兄弟関係が親子関係・夫婦関係・隣人関係と形を変えることは、我々が毎日の新聞を読むとき、はいて捨てるほどあります。殺人の多くは見知らぬ者同士でなく知り合いが多いと聞きます。

しかもカインは、犯行を隠し通せると思いました。そこには誰もいなかったし誰もその噂を耳にしなかった。しかし神はカインに尋ねます。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」 この質問はアダムが罪を犯したとき、神が尋ねた「アダムよ、どこにいるのか」(3:9)と重なります。カインは苦しげに答えます。「知りません。私は弟の番人でしょうか」(4:9)
カインにとって、アベルはもはや兄弟ではなくなってしまったのです。神は「いや、彼はいぜんとして兄弟なのだ…」と言い含めます。後に主イエスがおっしゃっています。

  • 「兄弟に対して怒るものは裁判を受けねばならない。」(マタイ5:22)
  • 「兄弟を憎むものは殺人を犯すものである」(5:23)
  • 「兄弟に向かってバカ者というものは地獄の火に投げ込まれる」(5:22)

主イエスは我々がもはや兄弟と考えなくなってしまった人々、兄弟と感じなくなってしまった人々への責任を問われます。なぜ世界のリーダーといわれる人々が、その閣僚が、アジアでの核戦争を前提にした話ができるかと言えば、アジア人は兄弟だと彼らは思っていないからです。実は人間みな家族、人間みな兄弟なのです。

カインはエデンの東のノドの地に定住し、結婚をし、エノクという子をもうけます(4:17)。 エノクについては(5:21-24)に言及されます。エノクは神とともに歩み、神がとられたのでいなくなった。これは死んだととられますが、死を知らずに天に移されたと考える人もいます。「信仰によってエノクは死を経験しないように天に移されました。神が彼を移されたので見えなくなったのです。移される前に神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(ヘブライ書11:5)

・・・極めて敬虔な生涯を過ごした。彼はカインに育てられた。カインは暴力的な人であったが弟殺しの後で神の計り知れない恵みに浴した。4章の最後は「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」 主語は<人々が>です。それはまず、ただ一人カインが変えられ、やがてエノクが生まれ社会が変えられたからです。一人が変えられることが社会を揺り動かすのです。

(2021年10月31日 礼拝メッセージ)

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