聞こう神の言葉を

イザヤ書 55章 8-13節

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アドヴェント(待降節)第2主日の礼拝を私たちは祝っています。2本目のロウソクに火が灯されました。アドベントはクリスマスの心備えのときです。そして25日にはクリスマス主日・降誕節第一主日の礼拝が行われます。そこから2月いっぱいまで降誕節の礼拝が行われます。つまりクリスマスは、言い換えれば新年の祝いのときです。アドベントは新年に向かって心を静かに整えるときと言えます。

今日与えられている聖句は預言者イザヤが、バビロニヤに捕囚となっていたユダの人々に語られた、神の言葉の最後の部分です。イザヤは神を人間と対比して、神さまの超越的な御姿、絶対的なあり方を、美しく歌い上げます。たとえそれがバビロニヤにおけるユダの捕囚の地であろうと、この神に信頼する人は、最終的に、神による喜びを手にすることができる。神がそう言われるのだとイザヤは伝えます。現実問題として解放を予感させる<なにか−状況>があったのではありません。それは夢物語に過ぎないというほうが圧倒的に常識的でした。神の救いなど何処にも見えない。そうとしか確かに見えない世界だったのです。人の目には!

    8、9節で<わたし>と言われているのは神ご自身のことです。神と人間存在が較べられます。<神の思いと道>が、<人間の思いと道>を較べます。<思い>は考えや計画や構想です。<道>は思いを実行する<方法、手段>と考えられます。神と人では<思い>も<道>も根本的に全く異なるのです。

    7節に<神に逆らうもの>とありますが、神の思いが異なるのはこの<神に逆らう人>ではないと考えられます。神に逆らう人の思いが神の考えと異なるのは当たり前のことです。そうではなく、ここで言う<人-あなたたち>とは、信仰ある人、イスラエルの民の敬虔な人々です。他ならぬイザヤもその一人かもしれない。神に目を向け、真剣に心を向けている人々、<その信仰の思いと道は>神の現実とは全くかけ離れているのだというのです。

    それは天地ほどに違うといいます(9節)。天の高さに、地の高さは及ぶべくもない。天の広がり、宇宙の広大な無限の広がりに較べるなら、地の広がりなど取るに足らない。それは神の無限といえる可能性を信じ見上げることから始まり、人間のあまりに限られた不可能性を知りつつ、そこから立ち上がる力の原点を、見つけることができます。

      具体的に、ここでは神の言葉の力が言われます(10,11節)。ここでは言われていませんが、人間の言葉について言えば、人は言葉によって意思を表現し、計画を明らかにし、思想を表現します。その言葉によって共感し、影響を与え、人を動かすことです。けれど人の言葉ほどあてにならないものはない、と言いたくなる場合もあります。それどころか、その言葉が事態を混乱させ、場合によっては破壊や破滅をもたらすことさえあります。良心あると言われる人も限界にみちているのです。ところが神の言葉は、創造的で、命をもたらし、実りをもたらし、平和を実現します。

      ヨハネ福音書1章14節によれば、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(それは)恵みと真理とに満ちていた」。それはイエス・キリストにおいて神の救いの約束は実現したといいます。そして、それは一般の敬虔なユダヤ人の思いと道からは、はるか彼方にかけ離れたものでした。ですから、イエスへの違和感から、人々はイエスを死に追いやったのです。けれどそうした思い込み、過ちを包み込みながら、神はご自分の計画を完成へと進めて行ったのです。
      その神は、今の時代も同じ神として働かれます。神の思いと道は、私たちの思いと道とは、依然として遠くかけ離れています。神の計画と道はあまりにも深遠で、「神はどこにおられるのか」「何をしておられるのか」と神への疑い、不信すら抱くのです。

      東日本震災直後のことでした。「私は神を恨みます。」と、涙ながらにあいさつをしていた校長先生の言葉が伝えられたりしました。しかし今は、むしろ、あらためてこの時代に、キリスト教信仰も含め、信仰の可能性を訴える動きが、かつてなかったほど大きいのです。クリスマスには平和の実現ということがあらためて訴えられます。まさに平和の主であるイエス・キリストの父なる神により頼むことなくして、平和の祈りも、行動も、生まれてくることはないでしょう。
      イスラエルのいつの時代にも、神の言葉への疑い、あざけり、拒絶は絶えたことはありません。神の言葉そのものとして来られた主イエス・キリスト自身、最大限の暴力である十字架の犠牲となったのです。しかし神はそれらに打ち勝って、人はこの神の言葉抜きで、人の生きる道のないコトを明らかにされたのです。

      もし私たちがそのことに目をとめるならば、まさに12-13節に書かれている喜びと祝いは、バビロン捕囚からの解放として実現したのです。あたかも山と丘が歓声を上げるような、ユダの人々が捕らわれの地から解放されるときが実現するのです。最後の文章は、その喜びは<とこしえに消し去られることはない>と告げられています。

      いま日本は意気消沈しています。経済的にも、かつて決っして予想することがなかったような困難を予想する人もいます。日本をめぐる状況は様々なバビロン捕囚といえるのかもしれません。決して楽観のできる状況があるわけではありません。しかし、だからこそ神ご自身は、この困難な状況にある日本と世界を見捨てません。見捨てないどころか状況を超えて豊かに働かれるのです。天が地より高いように、神の思いと道は働くのです。日本と世界を導かれるのです。
      問われるのは、これを信じるかどうかの私たちの決断です。

      2022年12月4日 礼拝メッセージより

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