キリスト教会とパンデミック

私たち夫婦は先週第5回目のワクチン接種を受けました。幸いなことに接種に基づく身体的トラブルは今のところ起こったこともなく、体調は至って順調です。「わけもわからない異物を体に入れるのは賛成できない。」と心配してくれる人もいますが、居住場所が感染源にもなることがないように気を付けることは当然です。ところで、このコロナ禍で教会は、そうした心配を抱えて3年、4年と過ごしてきました。礼拝も一つの人々が集まって成立する<集会>なのです。この間に礼拝を行わなくなった教会も日本全体では少なからずの数に及ぶでしょう。1日も早く心おきなく礼拝のできる時をと願うのみです。

わたしにとって数か月前に読んだ一冊の本<危機の神学「無関心というパンデミック」を超えて 若松英輔・山本芳久共著  文春新書>と題する書物の1節(40ページ以下)のくだりが心に残っています。
「初めはローマ帝国で迫害されていたキリスト教が徐々に広まってゆき、国教化されたその背景には疫病とのつながりがあった。『 古代社会が災禍によって大混乱に陥っていなければキリスト教はこれほど支配的にならなかっただろう。』さらに「愛と奉仕」というキリスト教の価値観は、当初から社会奉仕と連帯という規範を生んだ。災難が襲った時でもキリスト教徒はうまく対処でき、そのことが実質的により高い生存率につながった。そのため疫病が一つ終わるたびに、キリスト教徒はたとえ新たな改宗者がなくても人口に占める比率を増やした。彼らの明らかな生存率の高さはキリスト教徒にも異教徒にも『奇跡』と映ったことで改宗を誘った」

面白い記述です。 キリスト者はあるがままにキリスト者として生きればよい。歴史のキリスト者たちはそうして国外から持ち込まれるコロナより、一層タチの悪い感染症(ペスト、コレラ)と戦って来たのだった 。
いつの時代も問われるのは、私達の「キリスト教をどう生きるか」という生き方の問題ではないか。

小枝 功(2022年12月4日 週報の裏面より)

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