み国を実現させる神

ルカ福音書 12章 22-34節

思い悩むな

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今日という日は、教会暦で言えば<降誕前第9主日>です。クリスマスを迎える前の4つの主日(日曜日)を待降節―アドベント―と呼ぶことは定着しました。けれど私たちが遣っている新しい教会暦ではクリスマス前の9つの主日を降誕前節として定めています。いうなれば今日からクリスマスわたしたちの新しい年にむかって心備えをするのです。新しい志にむかって、新しい自分を築くために歩みだすのです。

内容としてはマタイ福音書の山上の説教と同様の内容です。主イエスがお話になったのですが、何人もの人がその主イエスの言葉を記憶し、またそれを文書化して主イエスの語録として教会に流布していたものがあったのです。ところがマタイとルカではそれぞれ内容が違います。それはマタイやルカが勝手に書き加えたというものではないのです。
主イエスは旅の伝道者でした。イスラエルのあちこちを歩き人に触れ人々の心を癒したのです。つまり各地方に主イエスの足跡が残されて、言葉が口伝されていたのです。マタイやルカはそうしたものを聞き集めて福音書として構成していったのです。そうした違いを比べることでマタイやルカの意図、考え方がいっそう明らかになるのです。

そしてこのルカ福音書とマタイ福音書の相違点は、32節です。ルカ福音書が書かれたのは1世紀末といわれます。教会にとっては本当に困難な時代でした。ローマの皇帝による皇帝礼拝の強要。またユダヤ会堂をベースにしてキリスト教伝道を行っていました。70年のユダヤの崩壊により、キリスト教はユダヤ教と一線を引かねばならないことになりましたから、そこから自立することを求められたでしょう。そのときに聞こえてきた主イエスの言葉です。「小さい群れよ、恐れるな。」
主イエスが何十年か後の人々のために語ったような言葉です。

伝道者たちはひとつの町から、次の町へ迫害に追われる様にしてローマにまで福音をもたらしました。パウロは囚人として護送されてローマに行きましたが、ペトロは自らの意思でローマまで行き、両者ともローマで殉教したのです。ローマによる迫害は残酷でしたが、非常に局地的で、それを逃れることは困難ではなかったと教会史は語ります。無数の、名も知らない人々が主イエスの言葉を伝えていったのです。現にローマの教会はパウロでも、ペトロでもない信徒によって構成されたのです。

ルカの時代、教会は様々な畏れ、困難に付きまとわれていたにちがいありません。だからこそ、この言葉が鮮明に聞こえてきたのです。「恐れるな、小さな群れ。」 いつの時代にも恐怖や暴力によって自分の言うことを聞かせようとする存在があります。しかし主イエスだけは、恐れによって人を自分の支配下に置こうとは絶対になさらなかった。人から畏れを解放しようとした。主イエスが22節のところで「思い悩む」といわれるこの言葉は、言い換えれば「恐れる」ということです。私たちは今のこの生活が崩れることを恐れます。少しでも良い方向に行くことのみ願います。ルカのこの言葉の前に主イエスは豊作で倉庫に収まりきらないほどの収穫があった金持ちの話をします。それまでに経験したことのない収穫を得ていても、この人に安心感は来ませんでした。金持ちになることと、安心感と幸せな思いになることは、別のことだからです。

28節で、「信仰の薄い者たちよ」と主イエスはおっしゃいました。「信仰のないものよ」とは言われなかった。信仰はしっかりあるのです。でも薄いのです。でも薄くては困るのです。英語でも what little faith you have. 確かに神様と繋がっているのです。でもその信仰が小さいのです。私たちは祈りの中で、会話の中で<私のように小さな信仰しかないもの。>といいます。でも実際恐れから解放されないような信仰では困るのです。主イエスは解放してくださる。私たちの信仰は恐れを乗り越えることができるものなのです。<小さい群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。>(32節)

かつて南米でいくつもの独裁政権がありました。多くは戦後アメリカの士官学校で訓練を受けた軍人が政権に上り詰めてのものでした。チリーのピノチェット政権下で、あるとき数千名の人々がスタジアムに収容され、そのまま行方知らずになりました。そうした人々の遺体があちこちで白骨になって発見されています。今やっとピノチェットが裁判所に呼び出されるということになっています。当時ローマ法王が南米を訪ねました。独裁者たちは一応歓迎しましたが、その前後にこれ見よがしの迫害や、銃撃を人々に加え、新聞は法王の訪問に、祈り空しくと伝えたものです。しかし、空しくはなかった。やがて独裁者たちは次々と失脚し、その犯罪が明らかになりつつあります。

御国をくださることは神の御心 小さな群れよ、希望を失うな。天に宝を蓄えなさい。希望を捨ててはならない。信仰は空振りには終わらない。必ずヒットします。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(32節)
群れには飼い主がいます。言うまでもなく主イエス・キリストです。この方の導きに委ねて、冒険に満ちた人生を、歩んで行こうではありませんか。

2022年10月23日 礼拝メッセージより

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