宣教に向かって
マルコによる福音書 1:16-20
わたしたちにとってキリスト教信仰をもって生きると言うことは、人生のすべてとは言えないけれど、生きるということの大きな要(かなめ)をなしていることです。かなめとは扇で言えば、バラバラの骨をひとつにまとめるところですね。それがなければ何もかもバラバラになってしまうものです。ガリラヤ湖の湖畔で漁をしていた漁師達のところに主イエスが突然お出でになって、自分についてくるように言われたのです。主イエスはおよそ30歳になって、伝道を始められたときに、まず第一になさったことは、ご自分についてきなさいと声かけをして、弟子たちをお召しになったことです。驚くべきことです。一介の漁師かもしれない、でも雇人を雇っているほどの漁師が主イエスの言葉で雷が落ちた様に生業を捨てて、父親を雇い人を船に残したままイエスの弟子になってしまった。いったいこれは何だ…という出来事です。
わたしたちは教会に導かれたそれぞれの違った経緯があります。「生まれた家がクリスチャンホームだ」とはいっても、自動的にクリスチャンにはなりません。人はそんなに単純ではありません。なれません。自分のうちに深く納得する何かがなければ、なかなか洗礼を受けようとは思わないだろうし、きっと長続きもしないでしょう。特にわれわれプロテスタント教会では、自覚的信仰と言うことが言われます。伝道集会などでは決心を募る場面があったりして、自らの決心によって、キリスト教信仰に入信したと思ったりするのです。
けれどもしそうした経緯があったとしても、なぜ決心できたのか? その決心を生き続けられたのか? を思えば、じつはわたしたちがイエスキリストに捕らえられたのは「そこに主イエスからの直々の呼びかけがあったから」としか言いようがないのです。単なる自分自身の決断で、日に日に祈ったり、教会生活を継続したり、神の前に信仰を深めてゆくことなど可能になるわけがありません。
つまりそこには不思議な、くすしい神の導きがあったのです。じつは主イエスが弟子たちに働きかけられように、神はわたしたちを弟子達のように導かれていたのです。とても自分の考えや決断で、わたしたちがキリスト者になったと言うことでないことに気づくはずです。
旧約の預言者エレミヤが預言者として立てられたときの有名な言葉があります。
1:4-5。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、私はあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』」
聖書ではしばしば言われることですが、信仰に入ったものとして言わせてもらえば、自分自身に関して、初めから終わりまで、ともかく自分の人生は、すべて神の手に握りしめられている。そうした感覚なしに信仰生活は成り立たないのだと信じます。だからこそマルコ福音書で、主イエスが弟子となる人たちのところに突然姿を現して、弟子になるように命じられた。そして彼らはキリストの弟子となって、最初の教会を作っていくという、その後の人類の歴史にとって、はかりしれない大きな出来事に巻き込まれていくのです。
それは呼びかけられたほうから言えば、あまりの突然で、主イエスとの出会いについて、こころの準備ができていたかといえば、全く心の準備はなかった。
同じころ2章14節以下に収税所に座っていたレビという名の徴税人に向かって主イエスが「私に従ってきなさい」と命じます。それはあまりに突然の呼びかけですが、レビは電流が走ったように、直ちに立ち上がって、従ったと書かれています。それぞれがあまりに突然ですが、同時に、あまりに素直です。レビに関して言えば、その後主イエスと弟子たちを呼んで、祝いの席を設けていますから、それはとても嬉しいことだったと推測できます。誰であれ、人が信仰に入ると言うことは、神の計画によるのです。そしてさらに言えることは、その時のレビは、主イエスの弟子になるにはあまりにもふさわしくない、当時のユダヤの人々には、悪徳非道を働く人間のひとりだったということです。神が力を発揮して、この人々を捕らえてくださったのです。なぜシモン・アンデレ・ヤコブ・ヨハネ・レビなのか、なぜこの私か私なのか?わからないのです。しかし、主イエスはあなたのコトを深く思ってくださっての出来事なのだと思います。
さて、最初に召されたこの4人の人々は漁師であったと書かれています。この最初の4人こそ、後の教会を導くことになる人々です。とはいえ主イエスと共にいたのは3年ほどなのですから、人間的に言えばこの4人を選定することはどれほど難しいことだったかと言うことになります。漁師という職業は、その時代のユダヤ社会の中で、大いに尊敬され、非常に重んじられている仕事かと言えば、まったくそうではなかったと言えるでしょう。この後に出てくるレビは徴税人でしたが、これも徴税という国を支える大変重要な仕事でしたが、その税金の大半は実質的にユダヤを支配するローマの手に渡っていましたから、とても人から嫌われている仕事でした。しかも徴税人は請負で行っていたそうですから、税金に自分の収入分を上乗せして、一般の人から高い請負手数料を得ていた。ですからますます嫌われていたといわれます。やくざか詐欺師並みにみられていた。日本で言えば反社会的存在の人。
漁師と徴税人とは何の関係もありませんが、そうした人々が最初に主イエスから声をかけられて弟子になった。いずれも教会を指導する人として、人目を引くようなキャリアや家柄、学歴があったと言うことではモチロンなく、その正反対をなす人たちでした。主イエスが彼らに「私についてきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にしよう。」といったくらいですから、主イエスの弟子が漁師出身で悪いわけではありません。しかし最初に召された4人が漁師、次が徴税人と言うことは一種異様な感じがしないでもありません。主イエスの弟子となると言うことがその人の身分や立場とは無関係で、むしろ人から嫌われたり、さげすまれていた人こそ選ばれたという事実に目をとめるべきです。
つまりはこの頃の教会には社会的にさげすまれ、時には動物同様に扱われていた奴隷の人々も、教会には多く受け入れられていたらしいといわれます。この世の基準から見下げられていた人々なのでしょうが、神の眼から見ればそれはそれでよかった。教会はそうした違いを超えて、普通に信頼しあう関係が出来上がった。人間はだれしもさほど立派ではない。ダメな存在なのです。このダメな存在をキリストが呼んでくださり、ご自分のものとしてくださる。
自分を立派だといわなくて言い。くだらない存在であっても、がっかりすることはない。むしろ自分を「立派だ、立派だ」と言わないで済む人間と思える心こそ大切なのです。人の心は内心では自分こそ一番立派なのだと誇る思いがあります。
弟子たちは一切を捨ててキリストに従った。父や雇い人を捨ててキリストに従ったとあります。それほどのコトをしてでも、キリストに従わねば、崩壊しそうな自分があることを理解したからです。
マルコはこの召命の出来事を簡単に書いています。ルカも同じ出来事を書いていますが、少し違います。主イエスはシモンペトロに頼んで沖に漕ぎ出してもらうのです。ペトロは一晩中漁をしたけれど何も収穫がなかった。今日は魚が取れない日なのです。「どうせ獲れないだろう、でも、あえてあなたがおっしゃるなら、やってみましょう」と言って網を下ろす。「すると引き上げられないほどの魚がかかっていた。そこで、非常に驚いた。この方はなんという方なのだ。取れるはずもない魚が取れるなんて。ペトロは非常に驚き、飛びのいて、<自分は罪深いものです>。主イエスは「恐れることはない。今からあなたは人間を取る漁師になるのだ。」
誰でも、主イエスに従っていっても、どれほどのことが出来るのだろうと思います。しかし漁師達には、主イエスが言われたようにやれば、これほどの収穫がある。人間を漁る(すなどる)ということも、私の言うようにやれば、あなたにも出来る。たぶんダメだと君は思っているかもしれないけれど、必ずできるのだ。キリストに従っていけば、イエスを主と仰ぎ続ける人生はこんなに実り豊なのだ。
十字架を背負ってついてきなさいと、やがて弟子達に言います。人生の十字架は別に選ぶこともなく、わたしたちにはついてきます。だから、わたしたちがするのはただキリストについていくことなのです。真実に真剣についてゆけば、主イエスからは驚くほどの恵みと力がそそがれるのです。主イエスはわたしたちの人生に実現するのは、救いの業です。
今日もコロナは大問題です。コロナ感染症克服は地球的な課題です。教会もこの感染症とどう向き合うかは大きな問題です。あるキリスト者の方が訪ねてこられました。この方は最近集い始めた教会で、「コロナは再臨の近いしるしです。あなたも気をつけなさい。」と言われたのです。コロナを使っていわば脅したのです。キリストは私たちを脅しません。キリストは恵みあふれる方で私たちを救い、慈しみと愛で導く方なのです。それどころか彼ら弟子たちに信じられない可能性と力を与えられたのです。
(2021年01月24日 礼拝メッセージ)