信じる–ということ

ヨハネ福音書 20章 19-31節

イエス、弟子たちに現れる

復活祭が終わって新しい歩みが始まったと思います。21章は、のちに書き加えられたものだろうと学者は言います。もともとヨハネ福音書は20章までだったのです。ですから30節31節は、結びの言葉なんです。
もちろん、21章が必要だから付け加えられた。後の教会のいろいろな手続きを経て組み入れられたのですから、同等の重みがあると思います。この結びの句があることで何が違うかといいますと、トマスの出来事が私たちの目を集中させるのだと思います。ヨハネ福音書の元々の著者は、章を閉じようとする場面でトマスを登場させた。

イエスの死の直後、弟子たちは主イエスがよみがえるなど想像だにできないような状況にあった。弟子たちは行き場を失ってしまった。人々を恐れ、主イエスが処刑されたエルサレムか、その近くの一軒の家に、ドアというドアの鍵をすべて内側からしっかりと掛けて、息を潜めるように隠れていたのであります。
そして19節から始まります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」という書き始めです。週の初めの日に、マグダラのマリアに主イエスが出会ってくださった。主の復活を知った弟子と、知らない弟子の間には《まったく新しい人間に生まれ変わった》くらいの、大きな違いがあると思います。ですからマグダラのマリアは他の弟子たちに「私は主を見ました」と伝えたのであります。伝えたけれども男性の弟子たちは、その言葉を本気にとることはできなかった。マグダラのマリアを除く他の弟子たちの大半は、惨めさと悔いを持っていたと思います。
慙愧の念っていう言葉がありますけれども。もう、腑がよじれんばかりの心の苦しみ。
「我々はイエスという人物など知らない」と人々の前で言い抜いた。
「我々はイエスとは全く無関係なんだ」と言っていた。
「まして彼の弟子であるなど根も葉もない噂に過ぎないんですよ」
「私たちは彼の弟子であったことは全くない」
と言って、主イエスを裏切ったわけですから。主イエスの弟子であることを否定することで逃げ延びた。ですから弟子たちは仲間以外の人間には誰にも会いたくなかった。だから内側から鍵を掛けた。

弟子たちは主イエスを十字架にかけたユダヤの権力者、あるいはその上にあるローマの権力者たちを恐れた。でも誰よりも彼らが恐れたのは主イエスですよ。本当は会いたい気持ちもあるかもしれないんですけれども、「どの面下げてイエス様の前に行くのだ」ということであります。あれだけの深い恩恵と温情を示してくださったイエスの前に、今更“ごめんなさい”も言えないでしょう。言い訳もお詫びの言葉も何の意味を持たない。
そこにです、突如、主イエスが現れた。(19節の後半)「そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」という部分。この言葉も適切でしょう。彼らには平和などあるはずがないわけですから。心の平和などみじんもない。恐れしかなかった。そこに主イエスは弟子たちの真ん中に立たれたって書いてあるんです。真ん中は、ここでは意味を持つ言葉だと思います。なぜならば、主イエスの十字架の直前まで弟子たちは何をしてましたか? 我こそは弟子団の中心人物だということで序列争いをしていた。今はそうした自我も粉砕されて、弟子であるという顔すらしにくい状況にいたのだと思います。

この状況からイエス様が第一声をかけるとすると、どういう言葉がかけられると思います? 当然、当然、「なぜ私を裏切ったのか」としか始まりようがないと思います。ですが主イエスは、彼ら自身が、裏切りを前にして自己が崩壊してくるような絶望感に打ちのめされていることをご存知でいらした。ですから「平和を(シャローム)」とおっしゃったんだと思います。弟子たちが最も驚かされたのはその1点だと思います。彼らにとっては《主を裏切ったことに対してイエスの赦しが得られるかどうか》が肝心要のことですけれども、イエス様はまったく無条件に、何の保留もなしに、おっしゃってるのです。そんなことはすべて忘れて、主の弟子として歩んでいくことを弟子たちに求めている。
そしてその後で『父がわたしをお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』
この言葉の寛容さは、なんと大きなことなんでしょう。こうして主イエスは弟子たちのところにお出でになってくださった。

そこにトマスがいなかった。トマスが主イエスに出会ったのは8日目でした。今の暦で言うとトマスは4月17日のイースターの日にボロボロになってあてもなく、そこから1週間を彷徨って、結局行くところもなくて、翌週の月曜日の25日に彼らのために提供されている家に戻ってきたという形になります。
トマスは、イエスが十字架につけられたその事実、その意味が理解できなかった。その後に、あちこちから聞こえてきた主イエスのよみがえりという、どうにも理解できない噂に怯えたのだと思います。
トマスは恥じることしかできなかった。彼は他の弟子たちも含めて、裏切りというあってはならないことをしてしまった。裏切りを経験した人は心底怒る。徹底的に怒る。裏切り者は敵よりも憎いと言えると思います。しかも、死からよみがえるほどの方が心の底から怒ったら自分は立つ瀬もない。死の恐れと恐怖があったはずです。

しかし1週間前、弟子たちに出会った主イエスはすでに『あなたがたに平和があるように』と語っておられました。以前と変わりなく『あなた方を遣わす』と言っていたのです。そんなことは人間の世界ではありえないことですけれども、主イエスにとっては常識です。弟子たちは主イエスに遣わされるような存在ではない。もはやそんな資格もないし、それにふさわしい存在でないことをよく知っていた。
以前の弟子たちは違ってました。自分たちは確信があった。主イエスへの近さを誇ろうとし、主イエスの近さを獲得しようとしていた。しかし今は、自分たちの内に何の確信も無かった。自分というものを全く放棄せざるをえないような状態だった。

そこに主イエスがお出でになって『平和があるように。』と言った。そしてすぐにトマスに顔を向けて「傷口を触ってごらん」と言います。トマスにとって傷口を持つイエスが生きているはずはないのです。そうです、そのお方は十字架の上で死刑になったのですから、生きているはずはないんです。傷口を持つ主イエスが語ることは、復活の何よりも証なのです。ですからありえないはずのイエスがそこにいらっしゃる。
そしてさらに「信じない者ではなく信じる者になりなさい」と言います。トマスは触れてもよかった。でももう触れなかった。もうよくわかった。復活した主イエスがそこにいらした。傷口を持った主イエスがそこにおいでになった。彼はひざまずいて「私の主、私の神」と、イエス・キリストが神であると心の底から信じることができた。

主イエスはトマスに傷口を示しました。主イエスは復活の体を持っておられました。しかしその傷跡は罪無き主であるイエスが受けるはずのものではなかった。それは本来、トマスが、ぺテロが、弟子が受ける傷であったかもしれない。
人は人生の歩みの中で様々な外傷を負います。同時に、心の中に数え切れないほど多くの傷を負っている存在でもあります。外傷ならいつか癒される。しかし心の傷は外側のキズよりもはるかに癒され難いものがあるかもしれない。現に、何十年も前の青春時代に親から受けた傷を、未だに恨むという人を私は数人知っています。ですから沢山そういう方がいらっしゃるだろうと思います。主イエスはそうした心の傷まで全て引き受けてくださる。そして「これはあなたの傷ではない。私の傷なのだ。あなたの傷は私が引き受ける。あなたは癒されたのだ。」と宣言してくださる。

最も疑い深い弟子であったトマスが「私の主、私の神」と告白できた。トマスはこの主に導かれて、伝説では後にインドに行ったと言われています。インドの南部はキリスト教人口が、全人口の20%を占めると言います。キリスト教会は「トマス教会」と呼ばれて今につながっているそうです。まったく知る人のいないインドで埋もれるようにしてトマスは伝導に励んだのでしょう。

疑い深いトマスは主イエスに導かれた。私たちもそうです。赦された人こそ、人を赦す人間になり得ます。人は不完全です。でも最も疑い深い弟子であったトマスが、主を告白する弟子に変えられていった。感謝なことです。

お祈り

神様、あなたの恵みをこのイースターの知らせと共に語って下さいますことをありがとうございます。到底赦されるはずのない弟子たち一人ひとり、それを公言してはばからないトマス。この人々を一挙にあなたは弟子として再び召し、あなたの弟子に変えてくださいました。私たちは私たち自身のうちに、特に確信があるわけではありませんけれども、しかしあなたは、そういう私たちをあなたの恵みに潤してくださいます。どうかあなたの祝福を私たちにも豊かに注いでくださることをお願いをいたします。現在、世界で様々な問題がありますけども、復活の主、私たちの世界にあなたの業を繰り広げてくださいますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りをします。アーメン。

おすすめ