宣教の開始

ルカ福音書4章16-30節

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或る新聞の書評欄に青山学院大学の間宮先生という方が次のように書いていました。「今の日本では、『私はリベラル派だ』と公言する人をあまり見かけなくなった。保守が政治的価値の中心に居座り、リベラル派は保守との親近性を強調することによって命脈を保っている感さえある。』
現代世界の一つの大きな問題は、先進国があまりにも多くの高性能な武器を、むやみやたらに製造し販売し、使いきれない武器は、政治が崩壊する紛争地域に送られ、武装組織に過剰に渡り、既存の軍隊さえ圧倒してしまうまでに至っていることです。ISはその典型的な実例でした。主イエスが活動されたのは暴力が渦巻く時代でしたが、21世紀の現代も2000年前と変わらない、あるいはもっと厳しい暴力に揺さぶられる時代です。

主イエスはここで宣教の第一声を上げます。21節で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。たとえばマルコ福音書での主イエスの第一声は<神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。>でした。
この言葉を聞いて、22節に二つの反応があったことがいわれます。

  1. 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた。 
  2. この人はヨセフの子(大工の子)ではないか

というものです。イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれました。ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったのです。ナザレは小さな町です。イエスを少年時代から知っていた人々にとっては当然の反応でしょう。主イエスが話を終えると人々は「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。」(29節)のです。

主イエスは常に人々を癒やし、励まし、救うのです。しかし最後はこうして人々に追い出され、受け入れられず、切り捨てられていきます。主イエスは結果的に、彼を知らない人々に向かわざるを得ないのです。主イエスはナザレからカファルナウムに行きます。ここは住人の三分の二はユダヤ人以外の人々が住んでいたといわれます。主イエスはご自分の育ったナザレというユダヤ人の町から、外国人のほうが多数である町に移って(つまり、ユダヤ人社会から追放されることによって)、ユダヤ人以外の人々に伝道したとルカ福音書では言われるのです。当然この福音書を書いたルカもマケドニヤ人で、キリスト教がパレスチナというまことに狭い一角から、ローマ帝国全体に宣教される物語、使徒言行録を書くのです。

今日の部分はわずか10数節のところですが、神の福音は、神に選ばれたと自称する民からは迫害され(退けられ、イエスは追放され)、それによって外の世界に広がっていく有様を、主イエスの最初の出来事を通して語られます。
主イエスがここで引かれたのはイザヤ書の61章の1,2節です。この預言者イザヤの言葉は、その時代、まことに誰からも顧みられず、抑圧され、差別されている人々が解放される出来事を語ります。主イエスはまさにそうした人々の自由がここで回復され、イザヤの言葉が実現すると語られたのです。主イエスと出会うということは、まさしくここで悲しんでいる人、いたんでいる人、差別され、捕らわれている人々に自由がもたらされる。主イエスがなさったのはそう言うことなのだと、ルカ福音書、使徒言行録全体を通して繰り返して語ります。
貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人・・・。社会的な様々な構造の中で不正に自由を奪われ、抑圧され、命すら圧迫されている人。ある意味では現代にもつながる政治的抑圧を含めて、そこにある人々が解放される事と繋がります。

主イエスはナアマンの物語まで引き合いに出されます。紀元前8世紀ごろ、パレスチナに大飢饉があったのです。そこで活躍していたのは預言者エリヤです。エリヤは選民(選ばれた民)イスラエルの人のところには遣わされずに、異邦の地である、ツロのシドンにいた老女性のところに遣わされます(列王上17章の物語)。さらに列王下5章の物語、エリシャは異邦の将軍ナアマンを癒すという物語が述べられます。ユダヤ人には元多くの人々が苦しんでいるのに、神は形だけの選民を癒やさないで、蔑まれている異邦人こそ癒やされる。神はこれほどにユダヤ人の高慢さを見つめているのだと主イエスは述べられるのです。
それまで感心して聞いていた人々は一斉に立ち上がって、主イエスを非難し、罪びとをいわば人民裁判にかけて殺そうとし、主イエスを引き立てた。そこがナザレの高い崖です。そこで殺そうとしたのです。それは十字架を彷彿とさせる(ありありと思い起こさせる)場所です。主イエスの福音は貧しい人、抑圧されている人に向かう福音です。

障碍者に向かって、自らを健常として差別し高慢になる人々、そしてわれわれ。それに対して主イエスは障碍を持つ人と共にあり、障碍者の視点を持ちます。目の見えない人が主イエスによって見えるようにされたときの、解放されるという喜びはそこに共通なのだと。そうして主イエスは癒やされる喜び、生きる喜びをすべての人々と共有しようとした。それはそのまま私たちに注がれている神の思いです。

医学が進んで、かつて癒されなかった不治の病が癒されるようになりました。社会制度が整えば、救済される人々は増えるでしょう。しかしコロナ禍で、やはり貧しい人々、孤独な人々が入院もできずに亡くなって発見されています。戦時中に徴用され亡くなった韓国・朝鮮の人々は、北海道と福岡県だけで3000人を越えるといわれます。また現代世界で人身売買の被害者は世界で2700万人がおり、国連は何とかこの人権侵害を食い止めたいと働きかけている。

教会を教会たらしめるものは単に財力や、社会的地位や、教養ではないでしょう。こうして主イエスの目や神の思いは抑圧される人、痛める人に注がれていることを知って主イエスを伝える。迫害や困難にあいつつも、イエスを証するそうしたあり方こそ、教会が重んじなければならない生き方であることを覚えたいのです。

2023年1月22日 礼拝メッセージより

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