神こそ救い主

出エジプト 3章1-15節

モーセの召命

Please accept YouTube cookies to play this video. By accepting you will be accessing content from YouTube, a service provided by an external third party.

YouTube privacy policy

If you accept this notice, your choice will be saved and the page will refresh.

(1節)「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた」
モーセは、40年前、エジプトにいる一人の同胞のヘブライ人が重労働に苦しんでいるのを見て助けようとしました。けれど争いを仲裁しようとしてエジプト人を撃ち殺してしまい、エジプトから脱出して、シナイ半島の南端にあるシナイ山、ホレブ山で過去を捨てて、そこに埋没するように生きていた。地図で見るだけでも荒涼とした、いかにも地の果てを思わせるような場所です。彼は祭司エテロに拾われ、その娘と結婚し、エテロの羊の世話をする仕事を得、羊飼いの日常に埋没するようにして生きて来たのです。齢80歳を迎えんとする時を迎えていました。かつて同胞のヘブライ人を救い出そうとした青年の日の夢は、もうどうでもよい過去のものでした。

しかし神はモーセの足跡を追うようにモーセのところに来て言います。
(7節)「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」』
神は日常生活に埋もれていたモーセを呼びだしました。そして神自身との出会いを与えられます。神と出会ったことが、モーセの失いかけていた道を決定的に方向転換するのです。人生が終わらんとする80歳のモーセに、あらたな人生の船出が示されるのです。

それは日常の全く普通の情景の中で起こります。モーセは舅(しゅうと)エテロの羊を飼いながら、その群れを荒れ野の奥に追って行き、 神の山、ホレブに近づいたのです。
全くの何の変哲もない、もっと言えば退屈な日常の中で何事かが起こるのです。柴の間に燃え上がった炎の中に主の御使いが現れました。柴は火に燃えているのに、燃え尽きない。それに気づかなければ神の業にも気づかない。モーセは好奇心を起こします。不思議に思い、道を逸れてその不思議な光景を見ようとした。そこから神との出会いが始まります。

仕事の必要からか、あるいは仕事の失敗や疲れから自分を振り返ることがあります。トラブルや身近な人の死。日常そのものの人生の中で日常が中断されたり、日常を考え直す方向性に気づいたりするものです。今朝も私たちは道を逸れて神の山に近づくのです。礼拝は私たちに与えられた上山ホレブかもしれない。礼拝の度に、なにがしかの神の啓示、神の言葉に接します。
とはいえこの場合のモーセは、それまでにはなかった神との出会いにつながります。神はいつも私たちの傍らに共におられます。でもそれに気づく場合もあれば、気づかずに神の前を通り過ぎてしまう場合もあるのかもしれない。教会に来ていながら神との出会いに至らなかったという人もいます。

モーセは神に声をかけられました。モーセは「はい」と答えました。
すると神は言われました。(5節)「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
神は私たちをどんな時でも覚えていてくださる方です。気遣っていてくださる。そればかりでなく私たちに語りかけてくださる方です。

そうしたことも背景にあるかもしれない。私たちはかつて神の前に出ました。というより神の前に導かれた。でもそれよりも何倍もの強い思いを込めて神は私たちを呼ばれていたのです。私たちは神と出会い、福音と出会い、救いに出会えたのです。そのことは、聖なる神の前に出ることに他ならなかったのです。

履き物を脱ぐとは簡単なことではありません。靴とは慣れ親しんだものです。他人の靴はすぐわかります。私たちの足は他人の足とは全く違うからです。
私たちは、何事にも、自分の流儀があります。聖書はいいけれど、説教には不満だ。礼拝には来たけれど讃美歌が気に入らない。小さなことに違和感を覚えて福音との出会いに到達しなかった。様々な躓き、疑い、不平、不満も慣れ親しんだ履物かもしれない。モーセにとってもこの場所は聖なる神の前。彼を40年間忘れず、置き去りにせず、モーセを呼び続けてくださる神との出会いにいかに答えるかが問題でした。

み言葉は言います(7-10節参照)。

私たちは履き物を脱いで、この神を信じ、この聖なる神と、礼拝の中で出会うのです。私たちの苦しみを知り、叫びを聞かれる神がおられるのです。下って行き、助け出す神がおられるのです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そしてイエス・キリストの神です。

聖なる神、げんにあのアブラハムを助けた神、イサクやヤコブを自ら救った神。歴史の神が自らイニシアティヴをとってモーセを選んだ。選ばれるに何の功績も、実績も、適格性もないモーセ。過去に殺人という暗さを抱えていたモーセ。砂漠の羊飼いとして華やかな舞台からは絶縁していたモーセ。そのまま老いて、埋もれることだけしかなかったモーセを神が選んだ。神は人間の理性や、想像(イマジネーション)という範囲におられる方ではなく、自ら行動し、自ら人の心に届いて、一人ひとりの全人格を揺るがせ、変えていく神だと言うことです。そして人間の不幸や悲しみに無関心な神でもないのです。(7節)「わたしは、エジプトにいるわたしの民に苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。」
人の痛みを知る神、人間の窮状、苦しみ、弱さを深く思いやって、心を痛め、そして救う神・・・・・そのためにモーセを選んだ、というより拾ったのです。

当然モーセは後込みします。(11節)「わたしは何者でしょう。どうしてファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
無力さ、使命への不安感に打ちのめされそうなモーセがあります。逆に40年前のモーセなら、素直に「ハイ」と言って手を挙げたかもしれません。しかし齡80となり、自分という存在を深く知った今は、神の要求が、自分をはるか越えたものであることだけははっきりわかったのです。

しかしそれに対する神の言葉はまた意外です。(12節参照)
確かに政治家に求められるのは能力でしょう。モーセもこれからエジプト王ファラオと困難に満ちた交渉をしなければならないのです。しかし神様はモーセの能力については一言も言いません。というよりモーセの能力について神はご存知だったのです。だからモーセの能力など言及しない。神がモーセを選んだ。モーセをイスラエルの民の救いの事業に使わしたのだ。「私はあなたと共にいる。」これだけを信じていれば良い。これは私の仕事なのだ。だから私の力を発揮するのだ。あなたはこれを信じればいい。信じるのかどうなのだ、と問うのです。

神はモーセを通して歴史に介入することを現し、イスラエルの民をエジプトから救い出した。モーセに現れた神を仰ぐ民は、神の民となると約束するのです。
それでもモーセは安心できません。イスラエルの人々から「その神はなんと言う神なのだ」と言われたら、どう答えればよいのかと問います。それに対し神は「私はある。私はあるというものだ。」(14節)と答えます。名前を知るということは、その人を知ると言うことであったようです。イエスという名前を知ることは、その人の力を知ることにつながる。イエスの名によって祈るなら、それはすでに聞かれたと同じと考えられた。

★神はあってあるもの。存在の根源にある方。私はあってあるもの。
★私はなるところのものである。神はすべてを超越し、他の何者にもよらない。ナニもにも動かされない。
★その上、同時に現在は神の支配などどこにも及ばないように見えている世界も、やがて、そうなっていく。

神は人を愛するために人間の歴史に踏み込んでいく。神は彼らの苦しみを知った。彼らの叫びを聞いて、自ら心痛め、これを救おうとされるのです。
モーセが知った神はそういう神でした。イスラエルの民は、この神の愛と信頼にふさわしい民とは到底言えない人々でした。でも神はそれを一歩進めて、イスラエルの民だけでなく、全世界、全人類、取るに足りない罪人でしかない私たちを、極みまで愛された。

(2022年11月13日 礼拝メッセージより)

おすすめ