キリストの復活

ヨハネ福音書 20章 1-8節

二人の弟子が墓へ向かう

今日は復活祭の朝であります。イエス・キリストの復活の出来事は、絶望に打ちひしがれた弟子達を根底から創り変える大きな出来事でした。確かにそれは一つの歴史的な出来事ではありますけれども、同時に「復活は客観的な事実を超えて、弟子たち自身の心の中に起こった革命」と言うことができると思います。さらに、イエスに近づこうとする人々の心と人生を揺り動かして、変革してしまう特別な出来事でもあります。復活を知る事は、復活の事実関係を認定すれば、それで終わるというものではないと思います。聖書は誤りなき神の言葉だから、そのまま認めれば復活を信じたという事だけでは済まないと思います。キリストの復活はマグダラのマリアをはじめ、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなど、弟子たちの生涯を全く別のものに創り変えてしまったと思います。

パウロもその一人です。もともとキリスト教の迫害者であったパウロは、ダマスカスに向かって迫害のために出かけたわけです。しかしその馬上で不思議にも天の神(イエス)の声に動かされて回心する。馬上で全く別人に変えられたのであります。そう彼自身が言っています。何の音を聞いたのか何が起こったのか、それは幻聴なのかということよりも、彼はそこで別人格になった。彼は素晴らしい人生を歩むことになった。でもなぜ主イエスはこの人々に御自身を現されたのでしょう? 彼ら、彼女らにとってイエスがどれほどかけがえのない存在なのか、その《度合い》で自らを現されるように思えたりもします。
私たちの人生には一人一人、様々に大切なものがあり、大切な人々もいます。それぞれが何にも変え難い重み、価値を持っていて、そうした人々に囲まれて私たちは歩んでいます。その中で、キリスト教信仰、イエス・キリストの存在は私たちにとって、かけがえのない重みを持つものだと思います。

今日はマグダラのマリアの話をしたいと思っております。マグダラのマリアは復活の第一の証人となったと言われます。マルコ福音書の14章の50節に「主イエスが十字架につけられたとき弟子達は皆イエスを捨てて逃げ去った」と書いてあります。“弟子”とは、正確に言えば“男性の弟子”たちでした。女性の弟子たちは最後まで主イエスの処刑を見守りました。マグダラのマリア、小ヤコブのヨセの母マリア、サロメ、そしてイエスと共にエルサレムへ上ってきた婦人たちが大勢いたと、マルコ福音書の15章の40節41節に述べられています。埋葬にはアリマタヤのヨセフという議員と、マグダラのマリアとヨセの母マリという、まったく無名の女性が関わっておったのであります。

その中でイエス・キリストが復活して最初に出会ったのはマグダラのマリアであります。主イエスは最初に出会う人を選んだと私は思います。よみがえって誰と最初に出会うのかは、やはり重大な問題で、主イエスを最もよく理解する人でなければならない。ある聖書学者は、「イエス伝承において、ほぼ一貫して男と女は平等に位置づけられておりました。特にイエスの受難、復活伝承において女性たちはイエスの十字架と復活の証人として、その場でイエスを見捨てる男の弟子に対置される形で高く評価されておりました。このような女性たちの位置づけは、当時の男性社会の中で初めから差別されていた女性、とりわけその上に心身の障害や病気などで二重に差別された女性の位置に自ら立ち尽くそうとしていたイエスの振る舞いの反映であった。」と述べていて、マグダラのマリアを第一の使徒ではなかったと想像しているのです。パウロは第一コリント1章の27、28節で「神は弱い者、身分の低い者、無力な者を選ぶ」と書きました。

マルコ福音書、マタイ福音書では「十字架上に処刑されたイエスの亡骸は墓に葬られたけれど、週の初めの日、墓に行くと遺体が消えていた。だからイエスは復活した」という表現になっているかと思います。ただ、空になっているからといって、一方的に「復活した」と言い切るのは不十分であるかもしれない。亡骸は盗まれたかもしれない。だからこそローマの総督のピラトは盗まれないように墓の入り口には石の封印を置き、さらには番兵まで配置していた。それでも主イエスの復活を告げるメッセージとしては不十分な部分は残るかもしれない。
ところが、マグダラのマリアは復活した主イエスと出会い言葉を交わしている。まだ男性の弟子達が行方不明になっている中で、マグダラのマリアに主イエスはお目にかかってくださっているのです。
先ほど、主イエスは復活して最初に出会う人を選んだと申しました。なぜマグダラのマリアが最初の復活の証人となれたんだろうか。ヨハネ福音書の11節のところには「マリアは墓の外に立って泣いていた」と書いています。主イエスを過去の向こうに押しやることができなかった。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあったところに白い衣を着た2人の天使が見えた。天使から主イエスの復活が伝えられます。

「マリア」と主が呼びかけた時にマグダラのマリアは、それが主イエスの呼びかけだとすぐに分かった。どうしてすぐにわかったかというと、普段、主イエスが彼女のことを呼んでいる言葉だからです。実は“マリア”はマグダラのマリアだけではないのです。主イエスの母も“マリア”であります。この方を「マリア」と呼ぶわけにはいかないでしょう。マルタの姉妹も“マリア”でした。ヤコブとヨセの母も“マリア”です。何人ものマリアがいたけれども主イエスが通常「マリア」と呼ぶのはマグダラのマリアだけだった。主イエスとマグダラのマリアは特別な師弟関係だったということでしょう。
そしてマリアは主イエスにすがりつこうとした。マリアは主イエスの死を見届けましたが、今、主イエスが生きておられることを知ってあまりに嬉しかった。それほどの敬愛の情がマグダラのマリアにはあったのだと思います。

先ほどの聖書学者は、「私たちはマグダラのマリアが、かつて7つの悪霊に憑かれていた女性と知っています。つまり、かつて酷く心を病んでいた過去があった女性が、イエスに癒されてイエスに従うものとされた。ルカの8章の2節と3節で、癒されたマグダラのマリア自らは自分の財産を提供して主イエスの働きを支えている。なにがしかの経済力があった女性と推測されても悪くはないだろう。ヨハネ福音書や他の福音書が行き渡ったのは、この出来事から遥か後で、マグダラのマリアはもう亡くなっていたかもしれない。しかしマリアの記憶や伝承は深く刻まれて、復活を伝えるときにマグダラのマリア無しでは語ることができなかった。それはぺテロや男性の弟子たちにとって腹立たしいことだったかもしれない。ですから教会における女性のリーダーシップは、その後だんだん狭められて奪われていった。でも復活の最初の使信はマグダラのマリア無しには語ることは不可能だった。つまり心病んで7つの悪霊に付きまとわれていると言われたこの人を主イエスは深く愛した。この人を通して自分自身を伝えようとされた。同様に弱さをかこつ人に、私はあなたを覚えている。あなたは死を打ち破る神の力と愛に癒されるのだ。支えられるのだと伝えてほしかった。そうして立ち上がったマグダラのマリアの現実は、他の女性たち男性たち、すべての人々を強めたことだと思います。やがて教会内でマリアは第一の使徒となった」と、そう考えられているというようなことを書いていらっしゃいます。

マグダラのマリアの画像というのは多くあります。インターネットで見ますと、いろんなマグダラのマリアに関する肖像画のようなものが描かれています。多くは胸をはだけた罪の女の類型として描かれている。それは男性社会の中でマグダラのマリアの評価を崩そうとした男性たちの、一つの画策ではなかったかとも言われています。
ともかく、神は人を変えることができる。人は神の可能性に生かされることができる。そういうメッセージをマグダラのマリアは持っていると思います。

現代は諦めが支配する時代です。あちこちから「諦めなさい。どんなに努力したって、どうせ実りはしない」と言う声が聞こえます。私たちもつい諦めの境地に達しそうになる時があります。占いやオカルトが流行っています。要するに「諦めが肝心、諦めこそ出発なのだ」。そんなことが言われる部分もあるかと思います。マグダラのマリアを見て、弟子達のありえない変容を見て、私達は自分の人生に、もう一度希望を抱いていいのではないでしょうか。復活の朝はそういう時だと思います。今日1日が与えられていること、この一年が与えられていること、これを神の手に委ねて歩み始めれば何かが起こりませんか? 神が御心を表さないはずがありません。なぜならば主が復活なさったからです。それは皆さんの人生に何事かが実を結ぶ、その時なのだと思います。

お祈り

神様、あなたは聖書に弟子たちの変化というものを書き残してくださいました。1人マグダラのマリアをとっても、この病める女性にあなたの慈しみが注がれたときに、弟子たちのグループの誰よりも主イエスの身近で主イエスの恵みを語り伝えた人であることを教えられます。それはマグダラのマリア一人の出来事ではありません。私たち一人ひとりに、あなたの恵みが注がれて良いということです。どうぞ私たちはあなたの前に新たな歩みを進めていきたいと思います。私たちの志をどうぞあなたがお恵み下さいますように。一切を御手にゆだねます。イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

2022年4月17日 礼拝メッセージより

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