拠(よ)って立つ心が捨てられるとき

日本といえば<和の文化>
イスラエルといえば<聖書の民>
アメリカといえば<自由と民主主義を国是とする国>
それぞれの国家や民族が理想とするあり方は様々です。いかにそれを実現するか、あるいは今は実現できなくても、いかに実現に向かっていくか、困難でも真剣な問いでなければなりません。

イスラエルにとって、十戒と共に、旧約聖書の最初の五書は、きわめて大切な書物です。ところが・・・歴代誌下34章にヨシア王の18年に(BC623年頃)律法の書(申命記)が発見されたと述べられています。申命記はいつからか忘れられた書物となっていました。すでに北イスラエルは100年前にアッシリヤに滅ぼされて、消滅していました。聖書はその理由を偶像礼拝とそれに伴って引き起こされた道徳退廃に原因を見ています。けれどこの申命記の再発見は、ユダ王朝終末期の王ヨシアのときです。イスラエル民族が生き残るため要したのは、経済力ではなく、軍事力でもなく、馬の数ではなく、兵の数でもありませんでした。ただただ、彼らを生かすのは神の力に頼りきることのみでした。
次々とあらわれては消えてゆく軍事大国、覇権国家を眺めながら、イスラエルはしぶとく生き残っていました。神にささえられたからです。ひとびとも理想的にとはいえなくても、神の民として生きることを、ともかくも、努力したのです。ところがあるときから、神の民としての熱情はうすれました。多くの人々の心に律法を守ることは、金もうけの邪魔だ。人間は、やりたいことをやり、欲望のまま生きて何が悪いのだ。しょせん、信仰と、現実生活は両立しないのだ。等、等の思いが支配的なっていったのです。

ところで申命記には何が書いてあるのでしょう。
10章<寡婦と寄留者の権利保護>
15章<負債を免除><奴隷の解放>
19章<逃亡者のための逃れの町>
22章<同胞を助けること><姦淫の禁止>
24章<新婚者の兵役免除>
これらは、はるかな古代の人権宣言ともいえるものでした。しかし、やがて飢饉・不況のときに、多少高利でも金を借りねばならないというのは、現代日本社会でも同じです。イスラエルの律法では7年間、返済が出来なかった人は、借金が帳消しにされました。しかし、経済社会の中ではそれはとんでもないことでした。律法は踏みにじられ、金を返せなかった農民は、土地を召し上げられました。それでもなお金が足りない人は、家族を奴隷として差し出し、それでも不足した人は、自ら奴隷に身を落とさねばなりませんでした。信仰より、経済原則が先立ったのです。

しかしそうして自由農民が失われ、小作人、農奴化した農民に働く意欲は当然失われました。その結果、労働生産性はおち、人々の将来への希望も失われ、社会は坂を転げ落ちるように退廃にのめりこみ、イスラエルの伝統的宗教への信仰は地に落ちたのです。すべては目先の利益から、律法を無視した結果でした。
富裕階級の祭司達にとって、律法かくしは都合の良いことでした。誰もはいれない神殿の奥深くに、申命記はしまいこまれ、それから100年200年、思い出されることはなかったのです。ヨシア王は神殿修理に際し、偶然にも発見された申命記を手にとって、ゆるされた治世をかけて、すっかり偶像礼拝に塗り固められたイスラエルの宗教改革に力をつくしたのです。とはいえ、それはあまりに遅きに失した改革でした。ヨシア王の死後、再び偶像礼拝は力を得て、たちまちバビロニヤ捕囚という決定的悲劇がイスラエルを襲うのです。

聖書信仰はそれなりの人道主義を内に併せ持つのです。アルバート・シュヴァィツアーの働きも、マザーテレサの働きも、聖書信仰の動機無しには成立しなかったでしょう。けれど現実の教会は<人道主義>を掲げることに、あまりに後ろむきであるように思えてなりません。イスラエル政府のガザ封鎖は、文房具にさえ及んでいます。医薬品も禁止物資です。手術にも、歯科治療にも、麻酔は皆無です。これは人道に反します。沖縄では、今でもアメリカ軍人によって、毎月800件から1,000件の事件・事故が続いていると伝えられます。2週連続して女性が被害を受ける暴行事件もあると聞きます。被害者には何の補償もありません。
私は一人の人権、ひとりの存在の尊さを深く覚えたい。これは神が深く覚えられることでもあるからです。イスラエルといえば、即、聖地旅行しかイメージできない現代の教会のあり方に、人権を忘れたかつての人々のイメージが重なります。

(2010年06月20日 週報より)

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