ユダ

時に思います。神さまは、なぜ人間に自由を与えたのだろうか。信仰か離反か、献身か裏切りかを、ひとは選択しなければならない。人間が、はじめから背くことができないロボットのように、神の御意思を自動的に選び取る存在であったら、どんなに楽だったか。そうであればアダムもエバも、イスカリオテのユダも苦労はなかったかもしれない。時折ユダのことを思う。主イエスを裏切ったユダは主イエスが十字架にかけられることが判明して裏切りの<褒美>としてもらった銀貨30枚を、律義にも祭司長・民の長老に返却しに行ったのだった。おろおろしながら、見る影もなくやつれ果て、罪悪感に打ちのめされつつ、それでもその銀貨を手にしているわけにはいかなかった。ユダの心には主イエスが、反ローマの指導者して決起されることを、促す意図があったのではと考える人もいる。ユダの意図が単なる裏切りのための裏切りなら、金さえもらえば、あとは主イエスの運命がどうなろうと構うことではない。ユダは後悔して。命をもって償おうとした。

最近の日本社会で、新聞に伝えられるようなことで、こうした心からの後悔は伝わっては来ません、交付金の不正請求で仕組みを作った若い財務相の官僚が逮捕されたり、政権党の長老議員が数百万の賄賂をポケットにねじ込んだとか、東京オリンピックにかかわる金銭不祥事はいつの間にか藪の中の模様です。一連の日本の出来事に比べてユダは深く、深く後悔し、そして命を絶った。

ただ、11人の弟子たちの裏切りを神は忘れてしまったわけではなかった。でも神はそうした弱さをみつめながら、赦すのです。すべてを知り、承知しながら、全てを許されるのです。そうして11人の弟子達も、自分たちのすべてを知られている神の前に歩む。自分のマイナスを知られまいとすると新しい人間関係を渡り歩くしかないだろう。良い子である自分を印象付けるだけの人間関係作りなら、さぞ疲れることだ。どんなに努力しても、人間には光と影の部分を抱えている。主イエスはすべてを承知して、弟子のすべてを赦して十字架に上ってくださった。これを何もなかったかのように水に流してくださいと言えるわけもない。たとえ本人が清算したつもりで自殺して果てても、何も終わらないし何も始まらない。けれど主イエスが十字架にかかって絶命し、弟子たちすべてが、これで終わったと思ったその時に、復活の出来事が起こった。ユダはなお、主イエスのもとに帰る機会があり得たのではなかろうか。神は、人間の目からは絶対に許されないような裏切りでさえ、お赦しになられる。人間が自力で変われる部分など多くはない。でもこれほどの、はかり知れない神の愛にさらされていたら可能性は生まれる。だから我々は悔い改めに向かう。

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