心の津波

災害対策本部である庁舎の屋上まで押し寄せた津波に流されまいと手すりにしがみついて、九死に一生を得た人の話しが記されていた。

その震災の直前に、大学時代の1年先輩の死報に接した。家庭の事情から極度のうつ状態となり、そのことが原因だったと後になって知らされた。

八王子に大津波が押し寄せることは、有り得ないだろう。しかし誰の心にも、多かれ少なかれ、何らかの津波が押し寄せる可能性は常にあるのではないだろうか。私たちは、そうした時にしっかりと握ることができる「手すり」が必要である。いざという時に避難できる高台が備えられているべきだと思う。しかし、当の本人はなかなかそのことに気が付かない。高台に避難した人たちが「逃げろ、逃げろ」と必死に叫んでも、呼びかけられている人はあまり緊迫感なく、のんびりしているということがあり得るのだ。

高級住宅街として誰もが憧れていた海岸沿いの町が、液状化による被害で大変だという。被災された方々には気の毒だが、そうした話しを聞くといつも有名なイエスの言葉が思い浮かぶ。

「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いて行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

ルカ書6章47-49節

マタイ書では「砂の上に家を建てた愚かな人」である。

最近、こんな言葉を知った。誰の言葉であったか失念した。

「風で、強い草がわかる。雪で、強い木がわかる。挫折で、強い人がわかる。」

「苦しい時の神頼み」という言葉がある。一般的には、普段は気にもしないのにイザという時になって信心深くなるという御都合主義あるいはアリとキリギリスのキリギリス的な生き方をたしなめる際の警句、アリ的なこつこつ人生を推奨する際に用いられるようだ。

もちろん、普段からの備えがあるに越したことはない。しかし、イザという時に頼める「神」があるというだけで、それがあるのとないのとでは大違いという場合もあるのではないだろうか。そして重要なのは、イザという時の対処の仕方であって、普段からコツコツと励んでいても、イザという時に何の役にも立たなければそれでは意味がないし、普段は全く意識しなかったにも関わらず、ギリギリの時になって夢中でつかんだ 「手すり」が生死を分けたということもあるだろう。

「信仰の薄い者たちよ」と叱られるのかも知れないが、それでもおぼれそうな時に「助けて下さい」と言える相手を心に備蓄しておくことが、生きていくうえで、いつか押し寄せるギリギリの非常時に一番大切なことのように思えるこの頃である。

五十嵐 彰 (2011年05月08日 週報より)

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