平安

身を横たえて眠り、私はまた、目覚めます。主が支えてくださいます。

詩篇3篇5節

不安と苛立ちが社会に充満しています。しかし神は信仰者に平安な心を授けられます。信仰者といえど、動揺せざるを得ないような、不安や悲しみ、憤りと痛みが引いては寄せる波のように、足もとを洗うのです。しかしなお神は信仰者に揺るがない平安を与え続けるのです。

冒頭の詩篇を書いたのはダビデです。この詩篇を書いたときのダビデは、生涯で最も暗いときでした。ダビデの実子である王子の一人アブサロムが反乱を起こしエルサレムを制圧し、クーデターは九分どおり成功したかに見えました。アブサロムの殺意は激しく、初老をむかえていたであろうダビデ王は子供のように泣きじゃくり裸足でエルサレム城を落ちてゆくのが精一杯でした。

発端はアブサロムの妹、ダビデにとっては娘に当たるタマルが異母兄弟のアムノンによってよこしまな愛をかけられ、病気を装ったアムノンによってタマルがレイプされる事件が起こるのです。アブサロムは激しい怒りをいだき、やがてアムノン初めすべてのアムノンの兄弟を皆殺しにする事件を起こします。子供たちが起こす事件にダビデはきびしく処断する態度を取ることが出来ないのです。そして4年後、アブサロムは軍隊をみずからの指揮下において、十分な準備と手はずを整えてクーデターを実行するのです。アムノン、タマル、アブサロム。母親が違っても、すべてダビデ自身の実の子たちです。彼らが殺し、騙し、犯す暴力。なぜこんなことがと聖書を読みながらため息が出てきます。

しかしダビデはすべてこの一連の事件は自分の責任であることを知っていました。かつてのバテシバとのよこしまな愛。これにはバテシバの夫ウリヤの殺害も含まれていました。そうした自分自身の犯罪の構図が、自分自身の子供たちの間で再現したのです。責任は彼自身にあるのでした。この辺のドラマ仕立てはシェークスピアの戯曲を思い起こすほどの迫力があります。多少の過ちはだれの人生にもありうる。でも、これほどの事件はそんなにあるものではないし、あっていいはずがありません。

あまりに聖書にふさわしくないストーリー。でもこの出来事のさなかでダビデは冒頭の言葉を残したのです。だれにも責任転嫁のしようのないダビデの不行跡。昨日まで王冠を戴いていた人が、洞窟から洞窟に逃げ回るありさま。普通の感覚では首をくくるほかないような窮状だったでしょう。しかし、みずからの罪の告白を経て、神の赦しを信じるダビデには、心は不思議な平安が宿っていたのです。
シェークスピアと聖書の世界の大きな違いがここにあります。人が弱さから罪を犯すことはあるでしょう。人間存在はかくまで不完全なのです。たとえその罪が人の目にどれほど大きなものであっても、もし、その人自身が深く悔い、神の許しを求めるのなら、神は赦されるのです。それはあたかもその罪がなかったほどの徹底した赦しをお与えになるのです。だからダビデはこの窮状の中で、<身を横たえて眠り、目覚めるのです>

神はこうして一人の人を再生させ、再出発を促します。多く赦された人は、多く愛するのです。(ルカ7:47参照)

赦しの原点を忘れることはないのです。再生してこそ、償いも始まります。

(2012年07月29日 週報より)

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