客観的判断?

このたびの震災を単なる天災の範疇から、世界的な恐怖を与えるほどの、黙示的な世界の終末を漂わせる意識を世界にあたえたのは、いつ処理が集結するかを誰もいえない<原発>事故でした。世界中が息を呑むようにこの事故の収束を今か、今かと注視しています。そして、さらに、今後の日本の原発運転に関して結論はなお真っ二つに割れている現実です。いなむしろ今回の事故は予想を超える想定外の事故なので(やむをえなかった―と言いたい?)、日本にはなお原発が必要だという意見が新聞などを見ればなお半数以上だと言うことです。(ただし奇妙な現実ですが、わたしのまわりでは、原発推進派と言う人はほとんどいません。)

人が同じ現実に直面し、同じ出来事を経験しても、そこから導き出される結論・行動は正反対と言うことは、じつはまれではありません。聖書にも同じような出来事が述べられています。エジプトで奴隷であった生活から解放され、モーセに率いられたイスラエルの人々はほどなく約束の地カナンに近づきます。そこでモーセは部族ごとに斥候を選び出し、派遣します。40日間彼らはカナンを回り、その地を調べ上げ、報告します。「そこは乳と蜜の流れる 素晴らしい所です。」

ところが、そこから前進か、後退かを決める段になると意見は真っ二つに分裂します。12人のうちの10人は原住民は強力で彼らに較べると自分たちはイナゴのように小さく、食い尽くされてしまうといいます。前進することは、命をかけた戦いで、いまさらここで死ぬことは避けなければならないことと考えたのでした。ところが12人の斥候の中でたった2人、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは「主がわれわれと共におられる。彼らを恐れてはならない。」と主張します。しかし多数派はこのヨシュアとカレブを<石打の刑>を引き合いに出してこの二人を沈黙させます。

他方、民衆達は不平をつのらせます。
「エジプトにいたほうがよかった。」
「こんなところで剣で殺されるならエジプトで死んだほうがよかった。」
神―信仰による可能性を全くみることをせずに、人間の欲望や計算による生き方だけをベースにして生きる生きかたもそれなりの生きかたです。イスラエルの人々はそれからの40年間荒野をさまよい続けるのです。ヨシュアとカレブはそうした頑是ない民を励まし続け、民と共に歩み続けやがて新しく来る時代に、人々を導きます。

ある雑誌に福島原発直後、日本列島を何倍も覆いつくす途方もない大きさの汚染した雲が、日本列島からカムチャッカから東方面に流れたとする地図が示され驚嘆しました。しかしなおその道の専門家といわれる人々も含め、「人間の知性は無限であり、不可能なことはありえない。原発を捨てるなどあってはならないこと」という人はなお過半を越えており、他方であちこちの原発では事故をおこし、また予想される東南海地震の予想される静岡の浜岡原発は地震にも、津波にも対策はされてないと伝えられました。
原発は絶対安全という客観的データに支えられて建設が促進されてきました。科学万能・人間知性への可能性を象徴するシンボルであったといえます。一発の原発のレベル7の事故は 東日本の震災からの回復のどれほど不安定要因を作り出してしまったことでしょう。しかも今回の事故がこれにとどまらない恐怖を引きずっています。

改めて人はみずから限界ある存在であることを自覚して、知性万能・科学万能などという傲慢な看板はそろそろひき下ろすべきでしょう。客観的判断といいながら、自分にとって都合のいいデータや判断をもとにして判断するやり方はモーセの斥候たちと現代の原発の安全性を主張してきた学者たちと通ずるところがあるのかもしれません。今こそ心の中に聞こえてくる神の声に耳を傾けるときではないだろうか。

(2011年05月01日 週報より)

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