信仰者の系譜が綴られて
ヘブライ書12章冒頭に次のように述べられます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」
教会の歩みも社会や国家の歩みの中で激しく揺さぶりを受けます。いったん激しい地震災害や大きな嵐に見舞われでもすれば教会もその影響は甚大です。事実、東日本震災でも数多くの教会が被災しました。ですが自然災害による被害は甚大ではあっても致命的ではないと思います。というのは、教会は確かに信徒の共同体ですが、単なる人の寄り合いではないからです。
つまり一人の人が人生の途上でキリストに出会う。そのこと自身が彼(彼女)にとって人生行路の大転換に他なりません。このために普通の教会では洗礼準備の時が持たれ、洗礼を受けることが定められています。中には自分は十分にキリスト教を理解していないのに受洗は早すぎるのではないかと迷う人もいる。けれど信仰生活は心決めてこそスタートなのだとつくづく思います。
由木教会では1973年以来、97人の方々が受洗の恵みに与ったことが記録されています。振り返ると、わたしはその全部の方々の回心の経験を共にできたことを深い感謝の思いで思い起こします。洗礼を受ける段になると、その一人ひとりが激しく心探られ動揺する人も珍しくはありません。無理はありません。神の前にともかくもすべてを曝してキリストを告白するのですから容易ならないことです。思えば現代日本は暗さばかり目につきます。けれどこの50年でほぼ100名近くの人々が世の光として歩み始めた。むろん由木教会はまだまだ小さき群れにすぎませんが掲げる福音のは一人でも多いほうが喜ばしい。
2023年2月26日 週報の裏面より