許しと償い

日本人は、総じて品行方正でまじめ、規範性に富んでいるという評判は過去のものになりつつあります。現代では社会秩序の模範とされる警察官、裁判官、教師や宗教家にいたるまで、不祥事には、驚かなくなってしまいました。モラルハザードは時代を表す言葉となっています。すこし油断すると教会のユニセフ献金箱も、箱ごともって行かれる時代なのです。犯罪検挙率は三割をきるそうですが、それでも、刑務所は満員らしいのです。受刑者の多くは自分が犯した犯罪に対する罪責感はきわめて低く、7割を超える人々が再び刑務所に舞い戻ります。特に最近、心痛むことは、巧妙で邪悪な殺人事件が頻発することです。最終的に犯人が挙がらずに、時効をむかえる事件も徐々に増加しているように思います。

「宣告」という小説を書いた加賀乙彦さんは、作家であり、精神科医であり、カトリックの洗礼を受けられたキリスト者です。加賀さんは死刑囚、無期囚についての長年の観察と研究を続けておられます。この人はその著書「死刑囚の記録」(中公新書)の中で、こうした重刑囚はしばしば、処刑されるかもしれない恐怖から、改悛の情を表すどころか、自分の犯行そのものが全くなかったものとして冤罪(えんざい)を主張しだすことが通例であると書いています。そこに、まれにあるほんものの冤罪と見極めをつける難しさがあるそうです。死刑囚たちは全く作り事の妄想が、あたかも本当の出来事であるかのようにいつしか自分のうちで信じるようになり、自分を悲劇の冤罪被害者に仕立てていくのです。死と隣り合う恐怖の中で、死刑囚は妄想と理性の退行をエスカレートさせていきます。

基本的には刑務所も矯正、教導の場であり、懲罰と人間破壊の場であるはずがありません。そこで人間としての心が回復され、殺人の犠牲者となった人々への心からの謝罪に目覚めてくれることを願うのです。しかし、実際には一方的な人間破壊の場で、むしろ刑務所で悪事を覚え、悪の仲間つくりがなされるというのが実態でしょう。

しかしそうした刑務所の現実の中で、唯一例外的な存在を、1章を割いて、加賀さんはとりあげます。所内で信仰者となったクリスチャン死刑囚の人々のことです。彼らがいかに荒れくれた生涯から、見事な信仰者として変えられ、ある人は燃えるような情熱を持って聖書の原語を学び、翻訳するに至ったり、他の人は立派な短歌集をものにします。死刑執行において刑務所長に世話になったことを感謝し、握手を求めてから、処刑され、犯した罪を償っていきます。しかし、このように変えられた人を処刑する空しさも、計り知れません。

現在アメリカで犯罪被害者と加害者の間に立って、被害者の心の許しと加害者の心の状態を見つめなおして、更正に向かわせる<修復的司法>という実践が始まっているそうです。これを始めた人はハワード・ゼアというメノナイト神学校でも教えた学者です。修復的司法については最近朝日新聞でも、しばしば大きく取り上げられています。このハワード・ゼアさんが6月27日から30日まで聖書学院においでになり、牧師研修会の特別講義をすることになっています。犯罪被害者になることはそれだけで、被害者本人は言うに及ばず、残された人々も、人間破壊を強いられるほどのことです。同時に、加害者自身もある意味ではすでに人間としての心が壊れてしまったという被害状況が予想されます。人間には、皮肉なことに何らかの正義の確信が、ある犯罪を作り出すことがあります。それだけに、人間が、神によって、また人によって許されるという、大きな心にふれることは、人間として再出発する上で欠くことができません。

どうしたら許せるのか。和解できるのか。私たちはさらに問わねばなりません。でも、答えは意外に近くにあるのかもしれません。

(2006年05月21日 週報より)

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