花は何もいわないけれど

この数日大雨や台風の影響で気温が下降気味ですが、湿度の高いきびしい暑さが続きます。例年ならあぶら蝉の大合唱が聞こえる時なのに、教会周辺では蝉の声が聞こえません。蝉の都合で、より住みやすい環境を見つけたからなのか、偶然の出来事なのか、誰か昆虫に詳しい人にうかがいたいことです。同じ夏ですが身の回りでは小さな変化に驚きを見つけることが出来ます。

最近またささやかなひとつの出来事に、励まされたことです。というのは、教会のそばに医院があります。大きな通りの交差点に面して 敷地があります。建物の関係で、駐車場が交差点の歩道に沿ってとってあります。90度曲がった角地の部分がパーキング・スペースとするために多少の苦労があったようです(むろん工夫次第でスペースは取れるのとおもえますが・・・)。その問題の場所は、形は逆‘台形’で、目視で上部は4メートル・縦3メートル・底辺2メートルほどの土地です。そこが駐車場として使えないのであれば、だれもが思いつくのは、花壇にすること・・・です。来院する患者さんの心も、少しは晴れるでしょう。ところが、医院はどういうわけか、そこに5センチくらいの高さでコンクリートを敷き詰めたのです。ただただ無粋な、何の用途もない灰色のコンクリート。最初コンクリート工事が始まったとき、なにかの看板をでも立てるのかと思いましたが、そうではありませんでした。

私の驚きは、その後に起こったことです。工事から数ヶ月たちました。この夏をむかえ、そのコンクリートのど真ん中から、コンクリートをつき破ってアオキのような葉が、目にしみるような黄色と緑の二枚葉を生やしているではありませんか。それも1本だけでありません。コンクリートとアスファルトの境目からも何本も生やしています。コンクリートを敷き詰めたのは「雑草も植物も、一本も許さない!」という意志の表明と受け止めたのです。アオキは堂々とそれを突き破ってくれたのです。そういう思いで目を見回してみると、教会周辺のあちこちで、生えるはずのないコンクリートやアスファルトの中や境目から、芽を出し、花を咲かせる植物の多いことに驚きます。これらの花たちはモノは言いませんが、驚くほどの意思と忍耐力で、固い石を動かし、初志を貫徹し、目的を成し遂げていきます。それを見て人知れず、私のような人間が心から感動しています。

ただそれは、われわれ人間が、とても複雑で、矛盾だらけだからなのかもしれません。そして、ひとは、すぐ、くじけます。そして挫折すると、それは自分のせいではないと、言い逃れます。政権をとった民主党が政権交代をもたらしたマニフェストをめぐって、「見通しが甘かったのではないか」と党内を二分する騒ぎになっています。政治の世界では、いったん掲げた理想を根こそぎ放棄することは、時折あることです。でも個人であれ、団体であれ、これこそわが信条として掲げた信念を揺るがすことは、信頼を傷つけることにつながります。

キリスト教信仰は、人が今どこにいるかを知らしめる人生の羅針盤のような働きをします。人が神の前に生きようとすれば、人を騙そうとか、強欲に生きようとか、倫理上問題のある生きかたをすることは不可能なのです。植物に何らかの意思があるかどうかは知りませんが、あのアオキのようにコンクリートを打ち破って芽を出す力があるとすれば、人が神の前に真実に生きるときに、どれほどの力を発揮できことでしょう。今、活力に欠けるとあちこちで指摘される日本社会で、福音こそ社会再生のかけがえのない力ではないか。犬の散歩で通るコンクリートに芽吹いたアオキを見ながら思いました。

(この文章を書いた後、コンクリートは一段高く塗りこめられ、アオキは姿を消しました。嗚呼、残念・・・)

(2011年07月31日 週報より)

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