震災と私

以下は、移動教会@山中湖・トーチベアラーズで7月17日にお話しした内容の概略です。

「洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。」(創世記7章)
「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」 (創世記11章)

まず洪水という自然災害が起こり、次に技術過信を戒める事故が起こったという順番が示唆的です。石の代わりにれんがを作り、馬車の代わりに蒸気機関車を、火力の代わりに原子力を。そこには常により早く、より大きな力を求める経済至上主義、資本主義原理が作動しています。追いつけ・追い越せの競争社会、さらに速くというリニア・モーターカー、大量生産・大量消費によるコンビニエンスな生活を維持するための様々な冷凍食品、そして遺伝子組み換え作物、合成化学物質、プラスチック・トレー、臓器移植、その結果がアレルギー、統合失調症、過労死…。

豊かな社会がイコール幸せな社会であると自信をもって言えるでしょうか。常に右肩上がりで成長し続けなければならない企業社会、あらゆる物や情報がすぐさま商品化されてしまう社会、二酸化炭素の排出権すらお金でやり取りされる世界。北の資本主義国家が進んでいる先進国で、南のアジアやアフリカ諸国が遅れている後進国とは、資本主義原理という物差しに基づく一方的な判定ではないでしょうか。違う基準ではかれば、どうでしょうか。

物がたくさんなければ暮らしてゆけないのは、貧しいからだ。大いなる心によって造られたものが乏しいからだ。パパラギは貧しい。だから物に憑かれている。物なしにはもう生きてゆけない。…たくさんの島々の兄弟たちよ。覚めていなければならない。澄んだ心を持たねばならない。なぜならパパラギの言葉はバナナのように甘い。だがそこには、私たちのすべての光りとすべての喜びを殺してしまうかもしれない槍が隠されている。私たちは、あの大いなる心の物のほかには、ほとんど物など必要でないということを決して忘れてはならない。

パパラギ -はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集-

一度決めたことだからと問答無用で無理矢理に飛行場や高速道路やダムを作るのではなく、もっとゆっくり、もっとじっくりと多くの人が納得するまで話し合うことはできないのでしょうか。

悪いと分かってから渋々やめるのではなく、悪いと分かっていることはもとより、いいと分かっていないことははじめからやらないというようにはならないでしょうか。すなわち、いいと分かっていることだけをやるという社会。もはや節電とかハイブリッドカーとか有機野菜とかそうしたレベルでは小手先の改善にすらならなくて、もっと根源的な私たちの考え方、発想そのものを根底から変えなければならないように思われます。
例えば、働いた時間に応じて給料が支払われるという誰もが疑わない資本主義原理に対して、近代が到達する遥か以前においてそれを真っ向から否定し、携わった人一人一人が等しく報酬を受ける権利があるとラディカルに宣言したイエスのような考え方(マタイ20章 1-16)。ひたすら物の豊かさを追い求めるのではなく、心の豊かさに目を注ぐ。教会の使命は、増々大きくなっています。

五十嵐 彰 (2011年08月14日 週報より)

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