祈る人

数日前のことです。車を動かそうとしたそのとき、帽子をかぶった品のいいご老人が説教題を前にして手を組んで真剣な面持ちで祈りをしているのに気づきました。エンジンをかけることは祈りおえるまで遠慮しました。また、こちらから声をかけることはしませんでした。私には気づいていなかったと思います。自分のためか、家族のためか、ほかの誰かのためか、教会の前に来て、祈らないわけにはいなかったのでしょう。そうして祈る人々は、じつは時折見かけるのです。教会の前もけっこう人通りがあります。神社やお寺の前で手を合わして祈るのは日本人の心情としてなんら違和感は無いでしょう。でもけっこう人通りのある由木教会の前で祈るのは、多少勇気を要することです。周囲を気にする人なら祈れないだろうと思います。

お正月の初詣には九千七百万人が出かけたと新聞は伝えました。初詣に行く人は<みんなが行くから、わたしも行く>と言うことなのだと思います。祈らねばならないというせっぱ詰まった、緊急の祈るべき課題があるわけではありません。でも私が見たその方はきっと祈らねばならない迫られる課題があったのではないかと、私には感じられました。

問題が起こったとき、誰もが祈るわけではありません。やたらと(?)途方にくれ、他人にその苦境を話して同情を求める人もいます。引きこもる人もいれば、自殺に追い込まれる人もはんぱではありません。そういう私もそうした立場に追い込まれたら、どうなるかは定かではありません。そうなれば誰しもが心病むことは確実でしょう。

でも常識も理性もあるひとで、祈る人もいます。なぜ祈るかといえば、神が祈りを聴いてくださる、と信じるからです。それは、神が耳を傾けてくださると信じるばかりでなく、神が行動してくださることを信じるからです。神は道なきところに道を造ってくださる。神は紅海を裂き、ベルリンの壁を崩壊させることのできる方と、信じる人だけが祈ることができるのです。

人の目には、ことが到底実現不可能に見えるからこそ、神に祈ります。有限な人間には実現不可能なことが、無限の神にはそうではないのです。神を神と信じるとき、人は祈りに真実に委ねることができます。祈るとは、明日への期待を掲げることです。困難に見える現実に、神を信じるとき、不可能が可能に変わった、事件は、確実にたくさんあります。真剣に祈らず、神に期待しないことは、人生の大切な部分を落としてしまうことになりかねないのです。だから祈ることは大切です。

私も祈ります。その見知らぬ人の祈りも、神は聴いてくださるのです。

(2010年03月07日 週報より)

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