時の流れの中で

10月にはいりました。いよいよ秋。9月は記録的に気温の高い日々でしたが、季節はこれから冬に向って駆け足で過ぎていきます。様々なことがこの身の回りで起きています。自分にとって都合のよいことがあれば、そうでない出来事もあります。数ヶ月前の選挙に出馬した高名の建築家が亡くなったと新聞が伝えましたが、私のみじかにも、お元気そのものと思われていた方が、重い病気に見舞われて意識のない状態にあるひとがおり、また長年の知り合いである先輩牧師が、体力の限界を感じ、定年を前に退職したいというような意向を伝えて来られました。物事すべてに、始まりがあれば、終わりもあります。芽生えの春があれば、枯れ葉舞う秋もあります。スタートがあり、幕引きのときがあります。
いわゆる定年期を超えると、多くの人々が体力の限界を感じ、持病をかかえ、長年の仕事を手離します。お互いが、汗水たらし、力を尽くして労苦した事実が、その人の周辺や社会をなにがしか豊かにし、潤すことにつながっていると受け止めるべきです。時を経て、高齢期を迎え、そこで何らかの不自由さや、病を得たとしても、それは他者への献身の結果であった、ということもできます。幸運と成功と健康であることは願わしいことですが、その人の生き方が他人への配慮を欠いた独善的なものであったとしたら、幸せな人生を生きたことにはならないはずです。

人は神の御こころ、思し召しの中に生を受けます。親兄弟や、よき師に恵まれて、青春を過ごし、家族を得、苦闘し、老い、やがて病気をかかえ、地上の生涯に別れを告げます。人生が若さに輝くような、希望に満ちた順調なときはもちろんのことですが、老いて病と闘う困難なときも、じつは神の時を生きているのです。
ときおり、順調なときは神を忘れ、困難なときは過剰なほどに宗教的になったりする人も見受けます。けれどキリスト者は、善き時も、悩みの時も、神とともに歩むのです。苦しみに満ちた逆境のときですら、神とともに歩むのです。人の真の姿は困難のときに発揮されるものです。むしろ困難に直面して、人生は深められ、多くを学び、神のなされる出来事を喜ばしくうけ入れることができるのです。

今直面している様々な状況や体調は、人に影響を与えずにはおかないでしょう。ただ神は、物事がうまく行っている時やわたしの気分が好調のときにのみ働かれるわけではありません。むしろ困難なとき、逆境のとき、そして老いに直面するときこそ、神のときです。病気と向きあっているこの日こそ、神とお目にかかれるときかもしれません。きょう、神が私を用いようとされている日、なのかもしれないのです。体力や気力が尽き果てる困難なときも、神を信頼する静かな信仰に立つことは出来ます。まさしくそうなのです。

(2007年10月14日 週報より)

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