我ならぬ我、現れ来て・・・

讃美歌21の579番「主を仰ぎ見れば」はこう歌います。
<主を仰ぎ見れば、古き我は、現世(うつしよ)と共に、速(と)く去り行き、我ならぬ我のあらわれ来て・・・・>
歌詞についてなにか言うつもりは全くありません。ただ思いめぐらす中で[我ならぬ我の現れ来て]というくだりに胸を突かれるような思いがしたのです。確かにひとは<我ならぬ我>をもっていると思います。日ごろ温厚でおとなしい人が、ハンドルを握ると人が変わったような勇ましい運転になる、お酒が入ると別人になる、わたしの身近では、高齢になって痴呆が進んで、以前は近寄りがたいほど厳格で、他人を寄せ付けなかった老人が、痴呆と共に、以前とは正反対に、穏やかで、お目にかかるたびに微笑みを持って他人を歓迎してくれるように変わった人もいました。もっともその逆のほうが圧倒的に多いのですから、ますますこの方の変わり方が、忘れられないのです。

人はときに地位・経験・学識をもって自分を装い、時にはよろいのように心を武装して、心の奥底にあるものを見せまいとする一面もあります。しかし、そうして見まい、見せまいとする心の奥底が、なにかのショックで、すべての武装や、虚飾が瓦解して、一挙に現れることが人間にはあります。真面目さがとりえだった判事や警官が万引きに手を出す。わたし自身から見ても、本当に、疑いなくこの人は真面目な人といえる人が、ある夜、名前すら不明なあるホームレスの男性を車で轢いてしまい、ふと我を忘れ、その場から逃走してしまったのです。この男性は轢死してしまいましたから、ひき逃げ死事件を起こしてしまったのです。亡くなられた方の名前は最後まで分からなかったのです。自分自身でさえ、そんな事態が起こり来るなど、事件を起こした本人でさえ、日常では想像もしなかったことなのではないか。あってはならないことですが、ふと人の心に、忍び寄る弱さを抱えない人はいないのではないか。そんな背筋の寒さを感じさせる出来事です。

しかしじつはこの上ない<真面目なジキル>がその人の本質なのか、或いは押し隠している<ハイド>がほんものの彼なのか、<我ならぬ我>が顔を出すとき、そこに何が起こるのか、見つめようと目を凝らすと、人間存在とは、恐ろしい爆弾を心の奥底に抱えたものなのだろうか。ペトロたち12人の弟子たちは、主イエスによる彼らの主への裏切りの予告が告げられたとき、そんな馬鹿なことが起こるはずはないと深く確信していた。しかしコトはものの見事に起こったのでした。彼らには見えない心の深見にある裏切りが主イエスにはありありと見えていました。けれど主イエスは、この人々を愛しぬき、弟子として手放すことはありませんでした。イスカリオテのユダでさえ、自殺して果てなければ、主イエスによって再出発する道が備えられなかったとは誰もいえないでしょう。

信仰はこの<我ならぬ我>をつくるのです。人間の努力が遠く及ばない、人間の心の奥底に、神の光は照り輝きます。人は神の前に謙そんで、柔らかな愛の心を宿らせねばなりません。ときに信仰の心に奇妙な自負心や慢心が生まれ、自分は誰よりも偉大な信仰者、人は自分に従うべきであって、自分は過ちを犯すはずのない深い信仰者などと思い込むときに、<我ならぬ我>はあらぬ方向に動いていくのです。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは罪に支配された体が滅ぼされもはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」(ローマ6:6) キリストの言葉も、パウロの言葉も、新しくなることへの約束に満ちています。
これを聞いて、あとはこれを信じるか、否かの決断をわれわれがなすかどうかに、かかっている。

あなたは?

(2010年03月28日 週報より)

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