老人に夢を、若者に幻(ヴィジョン)を!
その後 私はすべての人にわが霊をそそぐ。あなたたちの息子や娘は予言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、私は奴隷となっている男女にもわが霊をそそぐ。
ヨエル書3:1節、2節
どこを見渡しても希望など感じ取ることも出来ない状況の中で、神は特定の預言者だけでなく「息子や娘は予言をし、老人は夢を見、若者達は幻を見る」と預言者ヨエルは語りました。<若者に幻を、老人に夢を>とはある意味では、安っぽい政治公約の響きがあります。つまり<老人と夢>-<若者と幻>は手にするには最も遠い課題という響きがあります。すでに特養に入所している老人にむかって、あなたの夢は何ですかと問うほど不適切な問いはないでしょう。またキリスト者ではない日本の青年に、あなたのヴィジョンを語ってくださいと言っても、答えが簡単に返ってくるとは思いにくいのです。
イスラエルにおいて、過去の歴史において、希望や未来はどこにも見出すことが出来なかった期間は、それが当然の日常というほど、ただならぬ長い期間に及んでいました。しかしその中で、ヨエルのように、神によってイスラエルは見事に再生するのだと預言者達は語り続けていました。預言者エゼキエルにいたっては全く乾ききった、骨さえもが、神の言葉によって肉をまとい、人間として生き返るのだと、語りました。
預言者たちはなんと言う夢想家たちなのでしょうか。「実現不可能な夢を追い続けて何になるのか。」という声はもっともです。自らのおかれた状況を批判的、分析的に状況判断することは、悪いとはいえないでしょう。バビロニヤ捕囚というイスラエル国家の亡国と消滅の危機の中で、民族の将来を批判的、分析的に判断して、見通しのつく将来像が浮かび上がってくるはずがありません。かくかくしかじかで、私(たち)の未来は見通しが立ちませんと判断して、どう生きるかが浮かび上がってくるはずはなかったでしょう。
聖書のイスラエルの生き方を見ていて、人は見えない夢をあきらめない、感じ取れないヴィジョンを保持し続けることは、結局、彼や彼女を支えるのだと見ることが出来ます。まだお正月です!(アジアの多くの国々では、これから旧暦のお正月を祝うようです。)
単なる夢想と、預言的ヴィジョンに生きることは、根本的に異なるところがあります。夢相を辞書で見ると<夢の吉凶をみること>とあります。それは神がわれわれに見せてくださったヴィジョンなのか、勝手に自分で作り上げた夢なのかを判別することは大切でしょう。信仰に導かれ、祈るすべを知らされたわたしたちは、単なる夢想に走ることはありえないことです。神が下さった清い夢を信じて、全力で向かってゆくときに、道が開かれていくのです。まだそれを見たことがないと言うひと。神に見せていただこう。神による希望とヴィジョンこそ、イスラエルを生き残らせた力でした。そしてこの希望力こそ、現代を生きるわたしたちには欠かせない生き方です。
<老人に夢を、若者に幻(ヴィジョン)を!>いかがでしょう。
(2011年01月23日 週報より)