社会の激流の中で

彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。

マルコ5:15

日本では8月はヒロシマ・ナガサキそして敗戦の記念日を持って記憶する鎮魂の月です。私は1944年生まれの戦後派ですが、歴史としてそれぞれの時代を見つめてみると、なぜそんなことが可能だったのかと不思議に思えることを、世界はあちこちで繰り返してきたように思います。ことは日本です。「赤紙」といわれる召集令状一枚で、数百万の若者が敗戦濃厚な戦場に狩出されてしまったのか。なぜ昭和天皇は、自ら<現人神(あらひとがみ)>などと国民に言いえたのか。なぜ敗戦が色濃くなった時代に、アジア全域で民間人も含めて日本人が集団自決に追い込まれたのか。民主的教育の中で育ったわれわれの眼から見れば、何もかも理解しがたいことばかりです。

時代や社会というシステムは、その中に身をおいているものにとっては、それが当然の常識であって、そうしないものは間違っているのだというレッテルを貼ることがあります。かつての日本社会も、ナチ時代のドイツも、マッカーシズムの吹き荒れた1950年代のアメリカも、今から思えばなんと病んだ社会だったのかと覚えないわけにはいきません。最近のことでは、原発なしでは日本の社会は身動きが取れなくなるとさんざんコマーシャルでタレントたちが訴えていました。しかしこの夏、かなりの原発が機能停止に陥りましたが、日本社会は節電に努め何とか切り抜けました。我が家も7月の電気料は昨年比45%減でした。しばらく前に原発反対派は<反体制派>あつかいでしたが、今では原発の危険に日本社会全体がおののいています。

マルコ福音書に出てくるゲラサ地方の墓に住んで、昼も夜も叫んでいた悪霊につかれていた(つまり心病んでいた)ひとは、主イエスに癒されました。人々は彼を差別したり、見下したりはしますが、深く同情することはしません。その人を主イエスは癒され、社会復帰させます。しかし社会の反応はこうでした。

(群集は)レギオン(悪霊)に取りつかれていたその人が、服を着て正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。

マルコ5:15

人々は鎖につながれ、叫び続けるかつての彼を見て、自分たちがそうでないことに安心します。<自分はあんな人間ではない。>と安心するのです。しかし主イエスによって正気にされたその人を見て却って不安になり、恐れを感じるのです。比較の対象が居なくなって、自分こそ病んでいることを示されるからです。そうであれば、彼をいやされた主イエスのもとに赴いて、自分もいやしていただけばよいのです。けれど多くの人はそうはしません。自分が病んでいることを認めたくないからです。
かつて第一次大戦を前に、教会すら戦争は避けがたい、英仏との戦争はドイツにとって聖戦なのだと社会全体が傾いていく中に、ヘルマン・ヘッセは不戦を貫きました。その結果ヘッセはドイツに居られなくなって、以後イタリアのテッツイーノに移り住み終生そこにとどまり、作家としてまた農夫として過ごしました。ドイツはその後ヒトラーを生み出します。ヘルマン・ヘッセが正しかったのか、教会を含めてドイツの社会が正しかったのかは歴史が証明したことです。

社会に棹差(さおさ)すことだけがよいわけではないでしょう。健やかで良好な人間関係を育てていくことは大切なことです。しかし時に社会は激しく揺れうねることがあります。激動の中で社会自身が正気を失い、<鬼畜米英>だの、<八紘一宇>だのと叫び出すことがあります。むつかしいことですが、社会が砂漠のワジのように、とつぜん濁流のような流れとなって動き出すとき、そこから身を遠ざける人や考え方があっても悪くないかもしれない。なにも社会は一本の流れだけでなければならないことはないのです。それを受け入れる寛容さが社会には認められてもいい。主イエスは墓場からひとりの人をいやし救出されました。でも依然として、彼は社会から孤立していました。ただ彼には主イエスが共にいてくださった。

(2011年08月21日 週報より)

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