お互いを認め合う社会

私たちは新聞やテレビを通して社会を見ます。広い世界で起こっている事象は時折、自分という小さな世界で右往左往している私などには理解不能なほど間尺を超えることが結構あります。
一昨日の新聞記事です。二〇〇七年度の日本の貿易黒字額は11兆円で、外貨準備額は1兆ドルを越えたという記事です。日本経済は不安要因があるといわれますし、たしかにワーキングプーアといわれる人々、ホームレスや援助の必要な人々は増える一方ですが、それは格差拡大の結果で、富を分け合うシステムの不備でもあります。お金はあるところにはあるものらしい。
毎年の防衛費は約6兆円。今回事故を起こした、日本にはけっして必要でないはずのミサイル防衛艦-イージス艦は現在5隻あり、防衛省はさらに1隻増やす予定と伝えられます。イージス艦1隻の建造費は1,400億円。6隻でしめて8,400億円。ただの無駄使いとしかいうほかはありません。
私たちのまわりには、寝る間を惜しんで働いても、食うや食わずの生活しか出来ない人々。安心して妊娠出産も出来ない若い女性たち。年金から健康保険料を天引きされる高齢者たち。生活の不安をかかえる人々が雲のように多くいます。その一方で行われている無駄としか言うことの出来ない様々な税金の無駄遣いもなくなりません。

読むたびに聖書のこの言葉に目が止まります。
「おまえは取り引き(貿易)に知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。」(エゼキエル 28 : 5)
イスラエルはその時代、未曾有の貿易の成功でおごり高ぶったのです。それは世界のどの民族であろうとも、いつの時代であろうとも、変わることのないおごり高ぶりでした。旧約の預言者たちは、とくに金持ちや政治家のおごり高ぶる生き方に強い批判を加えました。やはり旧約の預言者であったアモスは次のような言葉を記しています。

「主はこういわれる。・・・私は決して許さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。」(アモス2 : 6)
預言者は政治家や商人達に公正と正義を求めました。預言者たちに公権力や自分自身を守る力があったわけではありません。発言と引換に彼らが手にしたのは迫害と殉教でした。しかし彼らは神の言葉とそこから聴こえてくる正義に徹したのでした。

ヨーロッパにおいて20世紀の前半まで、ユダヤ人への差別と迫害が頻々と起こったことは私たちの知るところです。強制的にキリスト教に改宗が行われたこともあちこちであります。しかしユダヤ人たちは多くの場合安易な改宗や同化を拒絶して彼らの伝統と宗教に忠実であろうとしました。その結果ユダヤ人地区は町の一部に限定され、ゲットーと称される狭い区画に押し込まれるようにユダヤ人たちは生活せざるを得ませんでした。
唯一の例外が、19世紀のオーストリアで、ユダヤ人寛容令が発せられたのです。その結果19世紀には多くのユダヤ人がウイーンに集まったのでした。しかし多くの国々ではユダヤ人は迫害される側の人間として、その社会で忍耐し、信仰者として一筋の道を目指してきたのです。いまやヨーロッパは、それぞれの地域の固有性、独自性を温存しながら、同時に、EU共同体として、ユダヤ人、ロマ(ジプシー)、アフリカ系、アジア系、さまざまな人々が混在する社会が実現しつつあります。最も厳しい迫害を耐え、旧約聖書を堅く奉じるユダヤ人の存在がこうした社会をもたらす一因となったと言えなくはないでしょう。
多様性の中の独自性。自らの生き方を大切にしたいから、他者の存在も認め合う。ヨーロッパのユダヤ人が求めてきたことです。われわれ日本人キリスト者も少数ながら、一歩も引かずにこの社会の中で歩んでいくのです。
ただ、現在のイスラエル国家において、パレスチナ人の人権は極めて軽く扱われています。これはどういうことでしょう。ユダヤ人が歴史の中で勝ち得た宗教的独自性は、多様な文化を認め合う社会でこそ成り立つはずです。それとも人間はやはり歴史から学ばないということでしょうか。旧約聖書には弱者の人権を求める預言者のこえが響き渡っています。

(2008年03月09日 週報より)

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