信仰者としてのネルソン・マンデラ

昨年12月5日に南アフリカ共和国のネルソン・マンデラが95歳で逝去した。マンデラについては様ざまな人々が書いていますが、ある月刊誌に牧野久美子さんという方がその紹介をしており、わたしはあらためて深く感動したのです。この人の葬儀に、米国からバラク・オバマ、ジョージ・ブッシュ、ジミー・カーターの3人の大統領と大統領経験者が出席したそうです。英国からはゴードン・ブラウン、トニー・ブレア、ジョン・メイジャーという3人の首相経験者が出席したのだそうです。ちなみにアメリカではネルソン・マンデラは1993年にノーベル平和賞を受賞していたにもかかわらず、2008年6月までテロリスト監視リストからはずされていなかったとか。

ネルソン・マンデラは1918年トランスカイに部族の首長の子として生まれ、のちにメソジスト派のミッションスクールに学び、洗礼を受けたキリスト者です。マンデラは若いころから人種差別のない南アフリカ実現のために力を尽くし続けました。それは黒人中心の南アフリカでもなく、白人にも、黒人にも誰もが平等に権利を保障される社会でした。34歳で弁護士資格を取ったマンデラはANC(アフリカ民族会議)の指導者の一人として「すべての人が調和のうちに、平等な機会を持つような民主的で自由な社会」の実現のため力を尽くします。しかしANCはやがて南アフリカ政府により非合法化されるに至り、それまでの非暴力主義からアパルトヘイトに対する武力闘争に方針転換に追い込まれました。その路線を指導したマンデラは逮捕され、死刑はまぬかれたものの終身刑をくだされ、27年の獄中生活を送ったのです。その間の劣悪な獄中環境で結核を患ったり、石灰石採掘場での重労働で目を傷めるなどの病を得たにもかかわらずさまざまな学問をおさめたといわれます。

牧野久美子さんは次のようにのべます。

マンデラ政権が遺した重要な遺産として、1996年に制定された新憲法がある。アパルトヘイト体制による重大な人権侵害の反省に立って制定された新憲法の人権憲章は、「世界で最も進歩的」とも評価されている。たとえば、「平等」の項目(第9条)では、人種差別だけでなく、性別・ジェンダー、年齢、障がい、言語など、違憲とされる差別の範囲を幅広く設定した。中でも、性的マイノリティーへの差別を明確に違憲としたのは、世界でも初めてのことであった。また、27条は、誰もが医療、食糧、水、社会保障を利用できる権利があると定め、国家に対して、これらの権利の漸進的な実現のために立法その他の義務を課した。

ネルソン・マンデラの生涯を見てゆくとき二重、三重に対立しあうグループに対し、それがたとえマンデラを27年間牢獄に苦しめた相手に対しても、和解と融和の手をこころからさし出したところにあります。そも南アフリカに在住したアフリカーンスと呼ばれる白人の人々は、オランダ系を中心として、ドイツプロテスタント、フランスのユグノーと呼ばれたプロテスタントの信仰の自由を求めて、ケープタウンの植民地を約束の地と定めて移住した人々の子孫たちです。つまりはヨーロッパに帰還する場所を持たない人々でした。この行き場のない人々が既得権利に執着することは分からないことではありません。マンデラの融和と和解の呼びかけはまことに意味があることだったと思います。

何をもってこのような呼びかけが可能だったのだろうかと思わないわけにはいきません。敵であった人々の心を、友と変える、融和と和解。そこにはマンデラが生きたキリスト教信仰を見ないわけにはいきません。これを、キリスト者だから単純に可能だ、というわけにもいきません。アパルトヘイトを実行していた人々も、形の上では日本に宣教師を送った熱心な信仰者だからです。信仰の真実は、人間性の真実を生み出すことが求められます。

(2014年02月02日 週報より)

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