共におられる神を見上げる

イエス・キリストが、人と共にある神(インマヌエル)としてベツレヘムにお生まれになったのがクリスマスの起源でした。主イエスは地上において、もっとも貧しい者のひとりとして奇るべない旅人として馬小屋でお生まれになりました。その場所は今まさに世界の不幸を一手に引き受けねばならないパレスチナ。ヨルダン川西岸地区といわれる壁でかこまれた悲劇の地です。
ごく最近アリ・フォルマンという名のイスラエル人の映画監督が「戦場でワルツを」という奇妙なタイトルの映画を作りました。内容はタイトルとはかけ離れてシリアスそのものです。じつはこの映画を作ったアリ・フォルマン自身の記憶喪失をもたらした戦場体験を描いています。1982年イスラエル軍とレバノンのキリスト教右翼武装集団がレバノンのシャティーラにあったパレスチナ難民キャンプを強襲して、数千名の難民を虐殺した作戦にこの人は参加していました。男性、女性、子ども、老人の区別なく、多くのキリスト者難民も殺致されたのです。アリ・フォルマンはその作戦に動員された1兵士であり、司令官は後にイスラエル首相を勤めたパレスチナ強硬派アリ工ル・シャ口ンでした。

そのときの作戦に参加した兵士達はアリ・フォルマンをはじめ、友人達も、そこで彼らが何を行い、何を目撃したかという記憶が失われているのです。ただそれぞれに不安な悪夢が夜な夜なその人々を苦しめます。フォルマンはその失われた記憶を取り戻すために、様々な人々にインタビューを繰り返し、失われた記憶のジグソーパズルを埋めてゆき、この映画の完成となったようです。

かって人間の社会で差別や弱者の切捨てが行われなかったときはなかったでしょう。人間は分かち合うことが嫌いです。年末を迎えアメリカで、政府から公的資金を注入されて息を吹き返した高収入の銀行家達に向かって、オバマ大統領が「太った猫(富裕属)が政府を牛耳ってはならない。普通の人々の犠牲でウォール街が潤う経済政策を続けることは出来ない」とワシントンで語ったそうです。そして時を同じくして、ロンドンでは、工リザベス女王が「彼ら(銀行の上層部)に思い切った増税を!」と声をあげたそうです。とはいえ、こうした大統領や女王の声も、強制力を伴わなければ、彼らの耳に入るものではないのでしよう。そしてそのはるか対極に、故無く家を奪われ、土地を奪われた難民、かって強制連行され肉体労働を強いられ、言葉も人生も奪われた韓国人、中国人の人々がいます。

差別や切捨ては常に巧妙に仕組まれて、制度化され、法律が整えられて行われますから、多くの人々は、自分が切り捨てる側に立っていることに、気付くこともないのです。癒しがたい苦しみを引きずりながら歩む被害者達。命奪われた人々は、叫ぶ声すらあげられず怨念だけが残ります。
多くのキリスト者や牧師達はイスラエル国家の非道さなど微塵も感じません。「むしろ悪いのはイスラ工ルにミサイルを撃ち込むアラブ人たち。イスラエルの人こそひどい目にあっているのですよ。」と聖地旅行から帰ったはかりの牧師夫人が懇々とわたしをさとそうとします。イスラエルは聖書の民、正義の国と信じてやみません。

あらためて、出産する場所すら与えられることがなかったほど貧しかったマリア・ヨセフ夫婦。神が御子の誕生の場所として、あえて選ばれたのは、馬の唾液が染み付くまぶねでした。クリスマスは、神が、苦しみ、もだえる痛みを抱えた人々を、決して忘れないという神の決意の日ではないでしようか。すでにその神の恩恵をいただいているのなら、深く感謝しつつ、痛みの中にいる人に心を通じたい。どれほど多くの恩恵を受けたかを知らないのなら、もう一度、おまえと共にいてあげようとする神に、目を向けたい。

(2009年12月20日 週報より)

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