クリスマスを迎える

クリスマスは、元来ヨーロッパがキリスト教化される前の冬至の祭りだったといわれます。北ヨーロッパがキリスト教化されたのは8世紀から10世紀頃と思われますから、それ以前、人々はニーベルング物語のようなゲルマンの占い神話の世界に生きていたのでしょう。ドイツ・オーストリアでは、冬至を迎える頃の日照時間は短く、ある音楽家がΓウィーンでは夜明けが朝の9時半で、午後3時半には再ぴ闇の中だ。」と書いています。まして森に覆われ、オオカミが森の支配者だった古代ヨーロッパでは、冬至のころ、覆いかぶさるような深い闇が人々に迫っていたに違いありません。

クリスマスの物語を、冬至の物語と重ねて、暗闇の祭りをキリストの御降誕に結び付けた宣教者の想像力はすばらしいと思いますが、そうして作られたクリスマスが1000年以上をへて、地球の裏側の日本でこんなに祝われようとは、これまた驚くベきことでしょう。
クリスマスは様々な驚きにあふれています。わたしは始めて教会を訪ねたのは1964年ですが、きっかけになったのは、その前年のクリスマスです。以前からわたしのクリスマスの楽しみは音楽でした。クリスマスが近づくと、世界中の様々なキャロル・讃美歌・宗教音楽が当時、NHKやFENで流れていたのです。そうした音楽を聞きながら、その年のクリスマス・イブわたしは不思議な、ただ事でない<神の迫り>を感じていたのです。わたしは「ぜひ教会に行こう!」と心にきめました。でもそのとき、すぐに行くべき教会は近くにはなかつたのです。教会を訪ねたのは翌年の5月でした。クリスマスには人の心を揺り動かすスピリットが働くのです。

ヘンデルのメサイアでは’The King of kings, The Lord of lords’<王の王、主の主>とハレルヤコーラスで歌われる神のみ子、イエスキリストですが、実際には、人間以下の馬や牛が生まれる動物小屋で誕生され、やがて十字架への導を歩まれました。人間であれば、すこしでも物質的に恵まれた環境をと願います。けれど人生は、成功よりむしろ失敗に直面させられ、高揚でなく失意に陥り、バラ色ではなく灰色の出来事に耐えねばならない状況が多くあります。幼子イエスの誕生は貧しさと侮り、差別と冷笑のなかで、これが神の意思のもとで行われていることをひたすらに信じるマリアとヨセフの、動くことのない確信によってもたらされました。

人生が、心破れた<冬の旅>のようでしかないと思つている人、人の目を気にするといつも差別されて、見下されているようにしか感じられない人、自分の人生はいつも貧乏くじを引いているようにしか感じ取れない人。主イ工スは、自分の人生がそういうものでしかないと感じる人を選んで生まれてくださる。冬至の祭りはクリスマスに転化しましたが、真冬のクリスマスは、音の復活祭にむかいます。イエスキリストがベツレヘムの動物納屋にお出でにならなければ、人が暗闇に閉ざされたエゴと罪のトラウマから解放されて、暖かな春の復活に連なることもできないのです。

今、得意絶頂の中にいる人にとって、イエスキリストは必要ではないだろう。成功のただなかにいて、人の心も金で買える、などという人にもイエスキリストを必要としないだろう。でも、今、自分の問題が自覚できて、自らの弱さをどうしようも出来なくて、ただ神に心向けることしか出来ない人のところには、主イ工スは自ら赴いてくださる。

あなたはこの主イエスを、こころから迎えますか?

(2009年12月13日 週報より)

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